プレイヤー

どうもです。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕は相変わらず不調なんですが、少しずつ快方に向かっているような気もします。毎回こんなこと書いてるような気もしますけど。
来年はもうちょっとアクティブに行動したいな、と思いつつ、自宅療養を頑張っております。無理せずゆるゆるやっていくつもりです。


さて前回に引き続きまして、トニー・シュートが在籍していたバンドを取り上げたいと思います。という訳で、今回はプレイヤーですね。
こんな風に書くと、シュートってまるでロック史に残る偉人みたいな感じですよね。実際は日本以外ではまったく無名のシンガーなんですけど。そんな人に関連付けて2回も更新するとか、いいのかなと思わなくもないですが。
それはとにかく、プレイヤーは『Baby Come Back』だけは日本で人気があり、今でも懐かしの洋楽ヒット曲のオムニバスにはよく入っているので、記憶にある方もおられるんじゃないでしょうか。
ただ『Baby Come Back』の印象が強過ぎて他の曲はみんな覚えてないらしく、一発屋呼ばわりされることも多いのですが、まあそれは仕方ないのかも。


プレイヤーの歴史は、ピーター・べケット(ヴォーカル、ギター)とJ.C.クロウリー(キーボード)がロサンゼルスで出会ったことから始まります。
ベケットは英国リバプール生まれで、16歳の頃ソートというバンドの一員として『All Night Stand』(作詞作曲はキンクスのレイ・デイヴィス)という曲でデビュー、解散後はバッドフィンガーのオーディションを受けたりパラディンというプログレ・バンドでアルバムを出したり、スティーブ・キップナー*1とともにスカイバンドなるグループで活動したりしていましたが、本国での活動に限界を感じ、75年に渡米しています。
一方のクロウリーは本名をジョン・チャールズ・クロウリー3世といい、その仰々しい名前から欧州の人かと思ってしまいがちですが、実はテキサス出身のバリバリの南部人です。
彼はフォークムーブメント全盛時の70年代初頭に全米をヒッチハイクで旅していましたが、その間に録り溜めたデモテープがジェシエド・デイヴィスの耳に入り、感激したデイヴィスによって直接激励されたという経歴を持っています。
二人は偶然ハリウッドでのパーティーで出会って意気投合し、バンダナというバンドを結成。76年にはデニス・ランバートとブライアン・ポッター*2が共同経営するレーベル、ヘヴン・レコードからシングル『Jukebox Saturday Night』でデビューも果たしています。
その後二人はロン・モス(ベース)、ジョン・フリーゼン(ドラムス)をメンバーに加え、バンド名をプレイヤーに改めます。
プレイヤーはライブ活動を地道に積み重ねることで実力を蓄え、その一方でデビューアルバムも録音していたのですが、その矢先に所属していたヘヴン・レコードが倒産の憂き目に会ってしまいます。しかし彼らの才能を見込んでいたランバートは、知己のいたRSOレコードにプレイヤーの面倒を見てくれるように頼み、無事移籍が実現して何とかデビューにこぎつけたというエピソードも持っています。またこの頃、末期のステッペンウルフに在籍していたウェイン・クック(キーボード)も加入していますが、彼は正式メンバー扱いではなかったらしく、アルバムジャケットには顔が出てなかったですね。
それはとにかく彼らは77年アルバム『Player』(邦題は『ベイビー・カム・バック』)でデビューを果たします。するとこのアルバムからカットされたデビューシングル『Baby Come Back』がなんとビルボードで3週連続1位を獲得する大ヒットとなり、一躍彼らはスターダムにのし上がることとなるのです。


Player - Baby Come Back


これがそのデビューシングル。ビルボードとカナダで1位、全英32位、ニュージーランドで4位、オランダで21位と各国でヒットしています。
AORとウェストコースト系のロックをミックスさせたような音ですが、哀愁溢れるメロディーと爽やかなサウンドは非常によく練られていて、ヒットしたのも頷けます。個人的にはイーグルスの『Hotel Carifornia』あたりと同系列のジャンルとして捉えてました。
歌詞は失恋の痛手を歌った大変切ないものですが、これはこの曲を書いた直前ベケットクロウリーも彼女との別れを経験していたから、というのがあったからのようですね。
なおこの曲の前にビルボード1位だったのはビージーズの『How Deep is Your Love』(邦題は『愛はきらめきの中に』)で、この曲の後の1位はやはりビージーズの『Stayin' Alive』、ビージーズのギブ三兄弟の弟でもあるアンディ・ギブの『Love is Thicker Than Water』(邦題は『愛の面影』)、そしてまたもやビージーズの『Night Fever』(邦題は『恋のナイト・フィーバー』)、続いてイヴォンヌ・エリマンの『If I Can't Have You』(邦題は『アイ・キャント・ハブ・ユー』。ビージーズが楽曲提供)と、なんとRSOレコードからリリースされたシングルが21週も連続でビルボードの1位になるという快挙を成し遂げています。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』の恩恵はあったとはいえ、当時のRSOレコードとビージーズの快進撃はすごいものがあったと言わざるを得ません。


Player - This Time I'm in It for Love


『Player』からのシングル。ビルボードで10位。邦題は『今こそ愛の時』。
こちらはかなりAORに寄せた感じで、当時はあまり興味なかったですね。おっさんになってから聴くと普通に良い曲だとは思うんですが。


Player - Tryin' to Write a Hit Song


『Player』収録曲。シングルカットはされていませんが、個人的に好きなんで載せました。
これは当時NHK-FMで深夜に放送されていた『クロスオーバーイレブン』で聴いたんですよね。素朴だけど良い曲だなと思いまして。
歌詞はヒットを出そうと懸命にあがくミュージシャンの悲哀を歌っており、これはこれで考えさせられるものがあります。


2曲のトップ10ヒットを出し、アルバムもビルボードで26位を記録するなど、彼らのデビューは上々の結果に終わりました。
ただRCA時代のホール&オーツを模倣している、と批判する向きも多く、これにはメンバーも激しく反論し、論議が巻き起こったこともあったようです。リアルタイムで読んでないんで、そのへんのことはよく分かりませんが、正直その評価は酷だなと個人的には思います。確かに似てますけどね。
この頃サポートのキーボードプレイヤーだったクックはバンドを離れ、代わりにニッティ・グリッティ・ダート・バンドに在籍経験のあるボブ・カーペンターが加入していますが、彼もクックと同じく正式メンバーにはなっていなかったようです。
とにかくこの成功で気を良くしたプレイヤーは、78年にアルバム『Danger Zone』をリリースします。ホール&オーツの真似と言われたのを気にしたのか、ややダークでロック寄りのサウンドになっていますが、ビルボードで37位とまずまずの売れ行きを記録しました。日本でもこの頃まではラジオでよくオンエアされてましたね。


Player - Prisoner of Your Love


『Danger Zone』からのシングル。ビルボードで27位。邦題は『恋のプリズナー』。
カッコいいイントロと重めのリズム、ソウルフルでダークな曲調が印象的な、ちょっと渋い感じの大人のロック(我ながら陳腐な表現)って感じでしょうか。
なおPVは途中で切れているので、当時のライブ映像も貼っておきます。



Player - Silver Lining


これも『Danger Zone』からのシングル。ビルボードで62位。
なんかこっちがビックリするくらいハードなギターを前面に出していて、古き良き時代のアメリカン・ロックといった赴きの曲ですね。
これもPVは途中で切れているので、スタジオ音源も貼っておきます。



順調に活動していたプレイヤーですが、メンバー間には音楽等に関する意見の違いが生じ、いろいろと緊張と軋轢があったようです。
その結果79年にはベケットがバンドを離れてしまい、結果プレイヤーはRSOとの契約を失ってしまいました。残された三人はバンド存続のためにいろいろと模索しますが上手くいかず、ついにクロウリーもあきらめてテキサスに帰ってしまいます。
その後モスとフリーゼンはベケットを説得したらしく、彼はプレイヤーに戻ってきます。バンドはクロウリーの代わりにマイルズ・ジョセフ(ギター)、ガブリエル・カトーナ(キーボード)を加入させ、カサブランカ・レコードと契約して80年に3rdアルバム『Room with a View』をリリースしますが、これはビルボードのトップ200にも入らず、今度はモスが俳優になるため脱退してしまいます。
バンドは元シュガーローフのラスティー・ブキャナン(ベース)を加入させ、プロデューサーには恩人でもあるランバートを迎えて、81年には4thアルバム『Spies of Life』をRCAレコードからリリースしますが、これもビルボードで152位といまひとつの結果に終わり、83年ついにプレイヤーは解散の道を選ぶこととなりました。
この2枚のアルバムは日本で宣伝された記憶はありませんし、実際僕も聴いていません。一応両者からはそれぞれ『It's For You』(80年にビルボードで46位)、『If Looks Could Kill』(81年にビルボードで48位)という小ヒットは出ているんで、今回改めて聴いてみたんですが、特にこれといって特筆するところのないAORって感じで、いまいちパッとしないように思いましたね。


その後ベケットは前回取り上げたリトル・リバー・バンドにギタリストとして加入し、8年ほど活動していました。
クロウリーはカントリーシンガーとなり、89年には最優秀新人男性カントリー歌手に選ばれています。またソングライターとしても活躍し、スモーキー・ロビンソンジョニー・キャッシュ、リトル・リバー・バンド、ケニー・ロジャースらに曲を提供しています。
またモスは、87年にABCテレビのドラマ『The Bold and the Beautiful』でリッジ・フォレスターというファッションデザイナー役を演じて大当たりを取るなど、俳優として売れっ子になりました。
そんな中、95年にはベケットとモスがプレイヤーを再結成し、5thアルバム『Electric Shadow』を日本限定でリリースします(翌96年には『Lost in Reality』というタイトルでアメリカでもリリースされています)。メンバーはベケット、モス、エリオット・イーストン(ギター、元カーズ)、バーリー・ドラモンド(ドラムス、アンブロージアと兼任)、トニー・シュート(キーボード、元リトル・リバー・バンド)という、ある意味豪華ですけどよく考えると意味不明なメンバーでした。
その後ツアーによってベケットとモス以外のメンバーは代わり、スティーブ・ファリス(ギター、元Mr.ミスター)、デイブ・アマト(ギター、元REOスピードワゴン)、ロン・ウィクソ(ドラムス、元フォリナー)、ロン・グリーン(パーカッション)などがプレイヤーの一員としてステージに立っています。しかし03年に当時のギタリストだったマイケル・ヘイクスが白血病の合併症のため死亡すると、それを機にプレイヤーは自然消滅し、メンバーはそれぞれの活動に散っていきました。
ところが07年に入ると再びベケットとモスが合体、新しいメンバーを加えてプレイヤーを再始動させます。アメリカではトップ40ヒットを一曲出すと一生食べていける、なんて話もありますので、やはり再結成というのはそれなりにおいしい活動なんでしょう。
彼らはクリストファー・クロス、ゲイリー・ライト、アル・スチュワート、ロビー・デュプリーといった何とも懐かしいメンバーとともに全米をツアーし、13年には6thアルバム『Too Many Reasons』をリリースするなど、まだまだ元気で活動しているようですね。

*1:アメリカ生まれ、オーストラリア育ちのミュージシャン。後に作曲家として活躍し、オリビア・ニュートン・ジョンの『Physical』、シカゴの『Hard Habit to Break』(邦題は『忘れ得ぬ君に』)、クリスティーナ・アギレラの『Genie in a Bottle』などを書いている。

*2:アメリカのソングライター、プロデューサー。ランバートはジェリー・バトラーやジェリー・リー・ルイスらに楽曲を提供していたが、69年にポッターと組んでオリジナル・キャスト、シールズ・アンド・クロフツ、フォー・トップス、ダスティ・スプリングフィールド、ライチャス・ブラザーズらに楽曲を提供し名声を博した。80年にコンビ解消後もランバートはコモドアーズ、スターシップ、ディオンヌ・ワーウイックなどと仕事をしている。