リトル・リバー・バンド

だるくて二週ほど休んだんですが、今日はなんとかなりそうなので再開します。
当分は体調と相談しつつ、休み休み更新していくことになると思いますけど、御了承頂ければ幸いです。


さて前々回に取り上げたトニー・シュートについての記事で、彼がリトル・リバー・バンドとプレイヤーにも所属していたということを書きました。
どちらも日本人にウケるタイプの良いバンドなので、せっかくの機会ですし紹介してみようかと思います。まず今回はリトル・リバー・バンドをいきましょうか。
リトル・リバー・バンドはビージーズAC/DCらとともに、オーストラリアからアメリカ市場を開拓したバンドの一つですね(正確にはビージーズは一世代前)。その割には日本での知名度は他の二つに比べて大きく劣るんですが。
しかし全盛期には日本のラジオでもそこそこオンエアされていましたし、メロディーが美しく日本人好みではあったと思うんですけどね。
その他の特徴として流麗で圧倒的なコーラスワークと、トリプルギターというところも挙げられます。特にコーラスについては抜群ですね。メンバーみんな歌が上手くて感心させられます。
サウンドも基本的には洗練されていますが、どこか土臭いところが残っているところがありました。このへんはオーストラリア出身ということが影響しているのでしょうか。


リトル・リバー・バンドはオーストラリアでそこそこ人気のあった、ミシシッピというバンドが母体となっています。
母国で売れっ子になったミシシッピは、世界進出を目指し74年に英国に渡りますが、これは失敗に終わりました。そもそもバンド名からしアメリカ志向としか思えないので、進出先を間違えた感じなんでしょうか。
しかしメンバーはそこで、エスペラントというバンドにいたグレン・シャーロック(ヴォーカル、ピアノ)と出会います。シャーロックはもともとオーストラリアでトワイライトというバンドに在籍し、60年代後半にいくつかのヒットを出したという経歴を持っていました。
彼らはそこで意気投合し、オーストラリアに帰国後も連絡を取り合いました。そして75年になるとミシシッピのメンバーであるグレアム・ゴーブル(ギター、ヴォーカル)、ビーブ・バートルズ(ギター、ヴォーカル)、デレク・ぺリッチ(ドラムス)にシャーロックが合流し、そこにリック・フォルモサ(ギター、ヴォーカル)、ロジャー・マクラクラン(ベース)が加わって、リトル・リバー・バンドが結成されることになるのです。
リトル・リバー・バンドはこの年アルバム『Little River Band』でデビューします。当時のオーストラリアではスーパーバンド的な扱いだったらしく、予想通り母国でヒットを飛ばしますが、彼らは世界進出の野望を捨てていませんでした。
今度は進出先をアメリカに変え、英国時代に知り合った元ミュージシャンのグレン・ウィートリーをマネージャーにつけ、翌76年にアメリカデビューを果たすと、シングル『It's a Long Way There』がスマッシュヒットし、オーストラリアからの新鋭として一躍注目の的となるのです。


Little River Band - It's a Long Way There


彼らのアメリカでのデビュー曲。ビルボードで28位。邦題は『遥かなる道』。
この曲は実は後追いで聴いたんですが、ストリングスのイントロこそ荘厳なものの、後年の大ヒット曲に比べるとややブルースっぽいところがあるなと思い、彼らのルーツを見たように感じたものです。
実際当時の彼らはブルース出身のフォルモサのギターが売りの一つで、その縁で日本のバンド、クリエイションと一緒に77年にツアーも敢行しています。ただ来日した時にはあからさまにクリエイションの前座扱いをされたため、その後の日本でのプロモーション活動に消極的になってしまったそうですが。


デビューアルバムはビルボードで80位と、オーストラリアのローカルバンドにしてはそこそこの売れ行きでした。
しかし76年の2ndアルバム『After Hours』はオーストラリアでこそ5位とヒットしたものの、ビルボードではチャートインせず、彼らのアメリカ進出はいったん頓挫した形となりました。
また音楽性の違いを感じたフォルモサは、リリース後にソロ活動のために脱退し、後任にデヴィッド・ブリッグスが迎えられます。また同じ頃にマクラクランもスターズというバンドに加入するため脱退し、ジョージ・マッカードルがその後を継いでいます。


彼らが本格的にアメリカでヒットするようになるのは、77年の3rdアルバム『Diamantina Cocktail』(邦題は『妖しいダイアモンド』)からでした。
このアルバムはビルボードでの最高位こそ49位でしたが、アメリカでゴールドディスクを獲得し、2曲のトップ20ヒットを出しています。


Little River Band - Happy Anniversary


『Diamantina Cocktail』からのシングル。ビルボードで16位。
基本はサザンロックっぽいギター主体の音ですが、彼らの持ち味である美しいハーモニーを多用して、ポップな側面を引き出しています。特にイントロのハーモニーは最高です。
この映像は81年の西ドイツでのライブ映像ですけど、コーラスワークがスタジオ録音とほとんど変わってなくて、彼らのライブでの能力の高さを示していますね。聞き惚れました。


翌78年にリリースされた4thアルバム『Sleeper Catcher』(邦題は『夢追い人』)で、彼らはさらに大きな成功を得ることとなります。
ウェストコーストのサウンドの要素を取り入れて、さらに爽やかな感じになったリトル・リバー・バンドの音は、アメリカで歓迎されビルボードで16位を記録する他、2曲のトップ10ヒットを出すこととなるのです。
鮮やかなハーモニーが持ち味の彼らが、こちら方面のサウンドを指向したことは正解だったと個人的には思いますね。実際オーストラリアのバンドとは思えないくらいウェストコーストっぽさは出ていましたし。


Little River Band - Reminiscing


『Sleeper Catcher』からのシングル。ビルボードで3位の大ヒットとなりました。邦題は『追憶の甘い日々』。
これまでとは違ってジャズのエッセンスを取り入れたせいか、当時流行りだったAORにかなりベクトルが向いているように思えます。洗練されてますよね。
実は僕が初めて聴いた彼らの曲はこれなんですが、まだ中学生だったせいもあってか「ボズ・スキャッグスみたいだ」と思ってそんなに良い印象を持たなかったんですよ。おっさんになって聴くと良い曲なんですけど。
歌詞に「グレン・ミラー・バンド」とか「コール・ポーター」とか出てくることからも分かるように、年を取ったカップルが若かりし頃に親しんだ懐かしい曲を聴き、当時を思い出して追憶に浸るという情景を描いた曲です。このへんにもアメリカでウケた理由がありそうですね。


Little River Band - Lady


同じく『Sleeper Catcher』からのシングル。ビルボードで10位。
美しいメロディを抜群のコーラスワークに載せて送るバラードで、彼らの魅力を最大限に発揮した曲だと思います。
『Reminiscing』があまりに有名なため、陰に隠れた感じになっているきらいがありますが、個人的にはこちらのほうが好きかも。


同年にバンドはキーボードにマル・モーガンを迎え、サウンドに厚みを加える方向に進んでいきます。
翌79年にはマッカードルが聖書の研究をするためというアカデミックな理由で脱退、後任にバリー・サリヴァンか加入し、5thアルバム『First Under the Wire』(邦題は『栄光のロングラン』)をリリースしました。
このアルバムはビルボードで10位に入り、アメリカでの最大のヒットになっています。日本でもこの頃が一番ラジオでオンエアされていたかもしれません。


Little River Band - Lonesome Loser


『First Under the Wire』からのシングル。ビルボードで6位。邦題は『孤独な負け犬』。
初っ端から厚めのアカペラでこれでもかと攻めてくる曲で、彼らのコーラスの魅力がお腹一杯になるほど味わえるナンバーですね。またツインリード・ギターもなかなかです。
手法は結構な力押しなんですが、メロディが端正で美麗なせいか、あまり嫌味な感じがしないのが個人的には好きです。


80年になるとサリヴァンが脱退し、後任にウェイン・ネルソンが迎えられます。彼はベーシストですが歌も上手く、後々バンドを支えていくこととなります。
またこの年には二度目の来日も果たしています。84年にも来日はしてるんですが、もうその頃には全盛時を過ぎていたので、このツアーが輝いていた時の彼らを観ることができた日本での唯一の機会となりますね。
すっかりアメリカで定着したリトル・リバー・バンドは、81年に6thアルバム『Time Exposure』(邦題は『光ある時を』)をリリースし、ビルボードの21位に送り込んでいます。
なおこのアルバムリリース後ブリッグスが脱退し、後任にステファン・ハウゼンが加入しています。


Little River Band - The Night Owl


『Time Exposure』からのシングル。ビルボードで6位。
それまでのヒット曲に比べるとかなりタイトになった印象を受けますが、彼ら本来の魅力は失っていません。このへんはプロデューサーを務めたジョージ・マーティンの力量もあるのかもしれませんね。なにしろビートルズのほとんどの作品のプロデュースをしている人ですし。
リード・ヴォーカルは新加入のネルソンですが、なかなか伸びのある良い声を聞かせてくれます。歌える人が何人もいるってのはいいですね。


Little River Band - Take It Easy on Me


これも『Time Exposure』からのシングル。ビルボードで10位。邦題は『思い出の中に』。
佐野元春サウンドストリートで、オンエアされたのを聴いた記憶があります。当時はあまり印象になかったんですけど、今聴くと普通に良い曲ですね。


しかしリトル・リバー・バンドの黄金期はこの頃で終わってしまいます。
何故かというと82年にシャーロックが脱退してしまうのです。バンドの顔と言ってもいい人物の脱退は、勢いを削ぐには十分な出来事でした。
バンドは後任に、オーストラリアでティーン向けのアイドルをやっていた経験のある(この頃はAORに鞍替えしていたようですが)ジョン・ファーナムを迎え、キーボードもデヴィッド・ハーシュフェルダーに変えて、83年に7thアルバム『The Net』(邦題は『夏への扉』)をリリースします。
このアルバムの内容はそれまでと遜色ない仕上がりになっていたと思うのですが、売れ行きは振るわずビルボードで61位に止まっています。


Little River Band - We Two


『The Net』からのシングル。ビルボードで22位。邦題は『思い出フリーウェイ』。
これまでの路線を踏襲した、爽やかな曲ですね。伸びやかな声が聴いていて気持ち良いです。
ファーナムは前任のシャーロックのようなハスキーで味わい深い声ではありませんが、張りのあるハイトーン・ヴォイスを持ったなかなかの力量の持ち主でしたね。


『The Net』リリース後、今度はバートルズが脱退し、バンドはトリプルギターですらなくなってしまいます。
翌84年にはペリッチも脱退し(後任はスティーブ・プレストウィッチ)、バンドのアイデンティティーがどんどん希薄になるなか、路線もどんどん迷走していきました。
85年には8thアルバム『Playing to Win』(邦題は『非情のゲーム』)がリリースされますが、これもビルボードで75位とパッとしませんでした。このアルバムを最後に、彼らのアルバムがビルボードのチャートに入ることはなくなります。


Little River Band - Playing to Win


『Playing to Win』からのシングル。ビルボードで60位。
キーボードをふんだんに使った産業ロックで、正直サバイバーかと思ってしまいました。
違うバンドだと思って聴くとそんなに悪くないですけど、やはりリトル・リバー・バンドの看板でこれを出されると、うーんって感じはしますね。
後期のジャーニーやスティクス、カンサスが好きな人だとハマる可能性はあるかと思います。


その後バンドはオーストラリアに帰るのですが、86年リリースの9thアルバム『No Reins』は本国でも85位という惨敗を喫しました。
結果ブレストウィッチがバンドを離れ、後任にマルコム・ウェイクフォードが加入するもすぐに脱退という混乱を経て、オリジナル・メンバーのペリッチが復帰します。
そして翌87年にはヴォーカルにシャーロックが戻り、全盛期にかなり近いメンバーで88年に10thアルバム『Monsoon』がリリースされました。
シャーロックのヴォーカルを求めていた人は多かったようで、このアルバムはオーストラリアでは9位とヒットしています。


Little River Band - Love is a Bridge


『Monsoon』からのシングル。オーストラリアで6位とヒットしたほか、ビルボードアダルト・コンテンポラリー・チャートでも18位に入っています。
正直おっさん臭くなっている感は否めないんですが、シャーロックのヴォーカルを聴くと懐かしさは募ります。


その後バンドはメンバーをとっかえひっかえしつつ、ツアーをメインに活動するようになっていきます。一時期は元プレイヤーのピーター・ベケット(ギター)や先述したトニー・シュート(キーボード)もメンバーでしたし、オリジナル・メンバーだったマクラクランも一時復帰していますね。
当然入る人が多いということは出て行く人も多いわけで、メインのソングライターだったゴーブルは92年、シャーロックは96年、ぺリッチは98年に脱退し、結局バンドにはオリジナルメンバーは誰もいなくなってしまいました。
現在バンドはネルソンが引っ張っており(彼も90年代に一時脱退していますが)、ベースとヴォーカルを兼任してアメリカやオーストラリアをツアーしているようです。
13年にはオリジナルアルバム『Cuts Like a Diamond』もリリースしており、まだまだベテラン健在といった感じらしいですね。


最後にメンバーの消息も、分かる限り記載しておきましょう。
シャーロックはソロ歌手として活動しています。オーストラリアのレコード協会の殿堂入りもしており(リトル・リバー・バンドのメンバーとしてだけでなく、ソロシンガーとしても入っている)、現地では根強い人気と尊崇を集めているようです。
ゴーブルはサイドプロジェクトを運営しつつ、ソングライター、プロデューサーとして活動しています。
ペリッチはリトル・リバー・バンドを脱退後音楽業界から引退していましたが、04年にはバンドの殿堂入りに際して登場し、シャーロックやゴーブルらとともに全盛期のメンバーで演奏しています。
バートルズはシンガーソングライターとして活動中で、殿堂入りの際の演奏にも参加しています。最近はリック・スプリングフィールドとの活動もしているようですね。
フォルモサは主に作曲家として活動しています。リトル・リバー・バンドのメンバーとの交友もあり、楽曲提供もしています。
マクラクランは98年から99年にかけてリトル・リバー・バンドに復帰したこともありましたが、基本的にはソロで活動し、フォークやカントリー系の音を出しているようです。
ブリッグスはレコーディングエンジニアとして活躍し、メルボルン大学では応用音響設計も教えています。また殿堂入りの際の演奏にも参加しています。
マッカードルは聖書の研究をしながら音楽活動を続けていたようで、2013年にソロアルバムをリリースしています。また殿堂入りの際の演奏にも参加していますし、リトル・リバー・バンド在籍時のことを綴った『The Man from Little River』という本も出版しているようです。
ハウゼンはカントリー系のギタリストとして活動しています。その実力は評価されており、元イーグルスグレン・フライドクター・ジョンクリストファー・クロスウォーレン・ジヴォンなど多くのミュージシャンのレコーディングに参加していますね。
ファーナムは再びソロ歌手となり成功を収めました。日本では無名ですが本国では大スターで、00年のシドニー五輪開会式ではオリビア・ニュートン・ジョンとデュエットするくらいの国民的歌手となっています。
ハーシュフェルダーはファーナムのバンドで活動するほか、映画音楽なども手がけています。シドニー五輪の開会式のテーマ曲は彼の作曲でした。
ブレストウィッチはコールド・チゼルという、オーストラリアではそこそこ名の知れたバンドで活動していましたが、11年に脳腫瘍の手術をし、そのまま意識が戻らず死去しました。享年56。
サリヴァンはファーナムのバンドメンバーとして活動していましたが、03年睡眠中に死亡しています。享年57。
またマネージャーのウィートリーは、ファーナムのソロ活動の売出しにも一役買っていましたが、07年に脱税の罪で捕まり、一時は最高で16年の刑を受ける可能性があると報じられました。結局は15ヶ月の拘置で釈放されるのですが、10年には飲酒運転で捕まり罰金刑を受けています。