トニー・シュート

どうもです。皆様お元気でしょうか。
こちらは退院したのはいいんですけどいまいち体調が不安定で、週に二、三回仕事に行く以外は(まだ出勤制限付いてるので)自室で臥せっていることが多いです。
こういう時は更新も休むべきなのかもしれないんですけど、今日は少し具合が良いんで、今のうちにちょろっと書いてしまおうと思って、PCの前に座っております。
とは言えだるい感じは抜けないので、簡単な更新にするしかないわけで、今回は書く量の少ない一発屋、それも英米ではぜんぜん売れておらず日本だけで売れた人を取り上げて、お茶を濁そうかと思いまして。
というわけで今回はトニー・シュートです。日本ではAORブームに乗って、一曲だけオリコンのトップ40に入るくらい売れたんですが、本国アメリカではまったく無名のシンガーソングライターですね。
僕もこの人のことについては全くと言っていいくらい知識がなくて、そもそも曲も一曲しか知らないんですが、その曲がとにかくラジオでよくオンエアされていたんで、脳内に完全に刷り込まれた形になってます。だから今回書いてみようと思ったわけで。


トニー・シュートは本名をアントニーノ・ジョセフ・シュートJr.といい、1952年に米国メリーランド州ボルチモアで生まれています。名前から察するにイタリア系なんですかね。
彼は8歳の頃に独学でギターを弾き始め、11歳の頃には初めて曲を書いたという早熟の少年だったようです。そして12歳の頃に観たビートルズのライブに触発され、正式に歌とギター、ピアノ、作曲のレッスンを受けるようになります。
特に作曲能力の成長は著しかったらしく、13歳の時にはボルチモアで行われたバトル・オブ・ザ・バンドというコンテストで、当時ビートルズのニューヨークでのマネージメントを担当していたナット・ワイスに気に入られ、ニューヨークに招かれてビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインに紹介されたりもしたようです。
その後一時学業に専念していたようですが、やはり音楽への情熱は止み難かったのか、20代に入ると活動を再開します。そして75年に開かれたアメリカン・ソング・フェスティバルというコンクールではいくつもの賞を勝ち取ることに成功しました。
これで認められたシュートは、翌76年にベイ・シティ・ローラーズに『My Lisa』を楽曲提供し、作曲家としての道が開けていきます。


Bay City Rollers - My Lisa


これがシュートが提供した曲です。アルバム『Dedication』(邦題は『青春に捧げるメロディー』)に収録されています。
思いっきり忘れていましたが、聴いてみると何となく思い出しました。なかなかムードのある美しいバラードですね。


その後もシュートは作曲活動やバック・ミュージシャンとしての活動をメインに行っていましたが、自分がデビューする夢は捨てておらず、そのためにソロでも地道に経験を積んでいました。
その甲斐があったのか、80年にはエピックとの契約を得ることに成功し、彼はアルバム『Island Night』でデビューを果たすこととなります。
するとそこからのシングル『Island Night』がおりからのAORブームに乗って日本でヒットし、シュートは日本でだけ人気者になったのでした。翌81年には来日も果たし、東京、大阪、名古屋、福岡でツアーも行っています。


Tony Sciuto - Island Nights


これがそのシングルです。ラジオの洋楽ベスト10みたいな番組では、トップ5に入るくらい人気がありましたね。
ドラマティックでダイナミックな展開が光る曲なんですが、メロディーには日本人好みの哀愁がふんだんに含まれており、また都会的な洒落た空気も纏っていて、シュートのソングライティングの才能には感じ入ります。
アルバムにはTOTOのスティーブ・ルカサー(ギター)やマイク・ポーカロ(ベース)、エド・グリーン(ドラムス)、ビル・クオモ(キーボード)ら、当時のウェストコーストでの腕利きスタジオ・ミュージシャンが参加しているのですが、この曲のギターソロは名手ルカサーを差し置いてシュート本人が弾いているそうですね。


しかし日本ではスマッシュヒットしたものの、アメリカではまるっきり売れなかったため、シュートはソロ歌手としてのキャリアを半ば断たれることとなります。彼が次のソロアルバムを出すには、その後19年という歳月を待たなくてはなりませんでした。
日本での人気が一段落した後、彼は再び作曲家とバック・ミュージシャンとしての活動に戻ることとなります。主にティナ・ターナードン・ジョンソンらに曲を提供し、英国の歌手ニック・ケイメンに提供した『Bring Me Your Love』はイタリアやフランスでトップ20に入るヒットを記録しています。またキーボードプレイヤーとしても、エリック・カルメンやリック・アストリーなどと活動していたようですね。
90年になると彼は、オーストラリアのリトル・リヴァー・バンドにキーボードプレイヤーとして加入しています。このバンドは70年代半ばから80年代前半にかけて、AC/DCとともにオーストラリアからアメリカ市場を切り開いたパイオニア的存在で、日本でもよくラジオでオンエアされていましたが、この頃は本国に戻っていた時期でしょうか。
彼はここで7年間活動し、同時に自らのバンド、ボーンヘッドも結成して94年と97年(この時はバンギング・ラッシュと改名している)にアルバムをリリースしています。この頃が彼の活動で一番アクティブな時期だったかもしれません。
97年にシュートはソロ活動に専念するためにリトル・リヴァー・バンドを脱退していますが、翌98年にはあの『Baby Come Back』で有名なプレイヤーに、やはりキーボードプレイヤーとして加入しています。これはリトル・リヴァー・バンドで同僚だったピーター・ベケットからの誘いがあったからのようですね。実はベケットはプレイヤーの全盛期のヴォーカリストで、一時リトル・リヴァー・バンドに移っていたもののこの頃プレイヤーに再加入していました。また当時のプレイヤーにはアンブロージアでドラムを叩いていたバーレイ・ドラモンド、カーズのギタリストだったエリオット・イーストン、Mr.ミスターのギタリストだったスティーブ・ファリスといった、なんとも言えない微妙な顔ぶれが揃っており、どんな音だったのか聴いてみたい気はしますね。
またプレイヤー在籍中の99年に、彼は日本のクールサウンドというレーベルから、2ndソロアルバム『Be My Radio』をリリースしています。このアルバムは76年から82年までにレコーディングしたテイクをCD化したものですが、とは言えやはりソロ名義のアルバムを出せるのは嬉しかったのでしょう、リミックスやデジタルリマスターまで彼自身が行っています。


01年にプレイヤーから脱退した後、シュートは生まれ故郷のボルチモアに落ち着き、再びソロシンガーとして活動することとなります。
日本では全然話題にもなりませんでしたが、05年と10年にはアルバムをリリースするなど、主にアメリ東海岸で地道に歌を歌っているようですね。またカントリー・ミュージックのプロデューサーもやっているとか。
また一昨年には31年ぶりの来日を果たし、丸の内のライブレストランCOTTON CLUBで、『Island Night』を完全再現したライブを繰り広げたそうですね。この時の模様は後にアルバム『Under The Radar』のボーナスディスクとしてリリースもされています。
実は当時この来日のニュースを聞いて、超久しぶりに彼の名前を思い出したわけなんですが、とにかく元気そうで何よりでした。子供の頃に聴いていたけどその後どうなっているか分からなくなっていた人が、地味でもしっかり活動しているのを知るのはなかなか嬉しいものです。