ジョン・スチュワート

どうもです。
最近中学生の頃にラジオから流れてきていたポップス系の音を、改めて掘り返しています。いや、これが結構楽しいんですよ。
当時は刺激の強い音に惹かれがちでしたから、その手の音は聴いて覚えてもそのまま省みなかったんですけど、今になってそれなりに耳が肥えた(僕の場合未だにミーハー気質が強いので、実はそんなに肥えてもいないのですが)状態で聴くと、新たな発見があったりして新鮮です。
今回はその中から一人、限りなく一発屋に近い人を紹介しましょうかね。今日は体調もいまひとつなんで、短めに。


今回取り上げるのは、79年に『Gold』の一発ヒットを飛ばしたジョン・スチュワートです。実はこの一曲しか知らないんですけど、当時の印象が強くてですね。
スチュワートは39年に米国カリフォルニア州サンディエゴに生まれています。父親は競馬の調教師で裕福だったらしく、スチュワートは幼少時から音楽を学び、10歳の頃にはオリジナル曲を作るなど、その才能の片鱗を見せていたようです。
早熟な彼は高校在学時に、学友らとともにジョン・スチュワート&ザ・フューリーズなるバンドを結成し、レコードデビューも果たすのですが、これは注目を浴びることなく終わりました。
その後大学に進学(学友にフランク・ザッパがいたそうで)すると、彼は多少路線変更して作曲家としての道へ進むことになります。当時はロックンロールやフォークなどの新しいジャンルの音楽が台頭してきたばかりで、そっち方面の曲を書ける作曲家の人材が不足していたため、将来メジャー・ミュージシャンを目指す人たちがまず作曲家として業界に入ってチャンスを窺う例が少なくありませんでした(あのルー・リードもキャリアの最初期は雇われ作曲家でした)から、スチュワートもそうやって活路を見出そうとしたのでしょう。
幸い彼はその道ですぐに頭角を現し、59年にはフォーク・ムーブメントのトップ・グループであるキングストン・トリオに作品を取り上げられ、業界の注目を浴びるようになります。
一時はニューヨークのルーレット・レコードから声がかかり、カンバーランド・スリーというフォーク・トリオを組んでいたこともあるんですが、スチュワートが本格的にミュージシャンとして飛躍するのは61年でした。この年前述のキングストン・トリオから中心人物のデイブ・ガードが抜けたため、その後任として迎えられることとなるのです。
キングストン・トリオというのは僕が生まれる前に活躍していたグループなんで、詳しいことは知らないんですけど、世界で最も有名な反戦歌として知られる『Where Have All The Flowers Gone?』(邦題は『花はどこに行った』。オリジナルはピート・シーガー)をヒットさせるなど、モダンフォークとポップスの融合を果たした存在として活躍した人たちだったそうです。スチュワートはグループが民謡メインからオリジナル曲メインに活動方針を変え、バンジョー中心からアコースティック・ギター中心のサウンドに転換するにあたって、大きな貢献をしていたらしいですね。
しかしスチュワートはプロテスト・フォークに理解を示し、グループをそちら方向に持っていこうとした結果、他のメンバーとの軋轢が生じ、結局トリオは66年に解散(その後断続的に再結成していますが、オリジナル・メンバーはもう残ってません)、彼はソロに転向します。


ソロ転向後のスチュワートのキャリアは茨の道でした。
やっている内容はその後のシンガー・ソングライターに近いものだったのですが、ちょっとブームには早過ぎましたし、歌詞が古き良きフォークの全盛時を踏襲する内容だったため、すでにロックを聴くようになっていた一般大衆には時代遅れに感じられて受けなかったというのもあったようです。
結局彼は69年に『Armstrong』という曲を全米74位という小ヒットさせたくらいで、目立った活躍をするわけでもなく地道に活動していくことを余儀なくされました。その間彼はメジャー・レーベルからもドロップアウトしています。
しかしそんな彼を熱心なファンが支えていました。特にイギリスにあったスチュワートのファンクラブは献身的で、メジャー契約を失った彼のために自国のRSOレコード(『サタデー・ナイト・フィーバー』の頃のビー・ジーズやアンディ・ギブ、エリック・クラプトンらが在籍していたことで有名)に懸命に働きかけ、ついにスチュワートと契約させることに成功するのです。本当にファンってのはありがたいものですね。
これに発奮したのかスチュワートは、フリートウッド・マックリンジー・バッキンガムをプロデューサーに迎え、79年にアルバム『Bombs Away Dream Babies』をリリースします。もともとバッキンガムはキングストン・トリオの大ファンだったそうで、スチュワートを崇拝すること篤く、自分からプロデューサーにしてくれと頼み込んだんだとか。
するとこのアルバムからのシングル『Gold』が、ビルボードで5位という大ヒットとなり、見事に彼はファンからの恩義に報いることとなりました。


John Stewart - Gold


79年のシングル。ビルボードで5位、全英43位。邦題は『カリフォルニア・タウン』。
シャッフルするビートにディスコっぽいリズムを刻む重いベースが載り、そこにエレピの哀愁味ある響きが絡むという渋いナンバーです。
スチュワートの声はあくまでも武骨なんですが、いかにもフォークの生き残りって感じがして良いですね。そこにバッキンガムの伝手で参加したスティービー・ニックスの艶のあるバックヴォーカルが絡んで、曲の魅力を飛躍的に高めています。もちろんバッキンガムもギターで参加しています。
大ヒット曲のサビの歌詞が「そこには音楽を金に変える人々がいる」という、音楽業界を皮肉ったものになっているのがなかなか面白いですが、このへんはかつてプロテスト・フォークに傾倒したスチュワートの矜持の現われなのかもしれません。
あと映像なんてすがとにかくバックダンサーがすご過ぎますね。いかにも当時のアメリカンなセンスって感じで、ダサくて田舎臭くてさすがに失笑してしまいます。


スチュワートは79年から80年にかけて、『Gold』を含む3曲をビルボードのトップ40に送り込みますが、その後はまた地道な活動に戻っていったようで、ヒットチャートとは無縁の人になります。
もともとフォーク出身の彼は、スターダムみたいなものにはあまり興味がなくて、それより好きな音楽を好きなように歌っている方が性に合っていたのかもしれませんね。
メジャー・レーベルとの契約が切れた84年には、彼は自分のレーベルであるホーム・カミング・レコードを設立し、そこから精力的に作品をリリースしています。ベスト盤やライブ盤なども合わせてですが、生涯で54枚ものソロアルバムを出していますから。
21世紀に入ってもその活動ペースは衰えなかったのですが、残念ながら08年1月18日には脳動脈瘤のため亡くなっています。享年68。


さて彼はソロキャリアのほとんどを地味なまま終えたんですが、ソングライターとしては大変有能で、誰でも知っている名曲を残しています。


Monkees - Daydream Believer


いわずと知れたモンキーズの『デイドリーム・ビリーバー』(当時の邦題は『デイドリーム』)です。
僕と同世代の人や前の世代だけでなく、後の世代の人にも知名度の高い曲ですね。ザ・タイマーズもカバーしてましたし。
これはスチュワートがスパーキー・アンド・アワー・ギャング(米国イリノイ州出身のフォーク・ロック・バンド)のために書いたのですが、見事にボツにされて行き所のなくなっていた曲です。
スチュワートはこの曲をタートルズのメンバーで、当時モンキーズのプロデューサーを務めていたチップ・ダグラスに聴かせました。ダグラスはスチュワートがキングストン・トリオに加入する際に同じく新メンバー候補に挙がっていた人物で、その縁でスチュワートとは親交が深かったのです。
ダグラスはこの曲がヒットすると直感し、一部の歌詞を手直しさせてモンキーズに録音させました。アレンジはジャズ・トランペッターとして有名なショーティ・ロジャースが担当しています。
意外にもモンキーズのヴォーカルだったデイビー・ジョーンズはこの曲を気に入らず、レコーディングでは常に不快感を隠さず仏頂面だったそうですが、リリースされるや否やあれよあれよと言う間にチャートを駆け上り、ついにはビルボードで1位、年間ランキングでも6位という大ヒット(全英では5位)となりました。
多くの人の記憶に残る名曲を残すということは、ソングライターにとっては最大の夢でしょうから、それを叶えたスチュワートは音楽家としては幸せだったと言えるんじゃないでしょうか。


John Stewart - Daydream Believer


本人によるセルフ・カバー。71年リリースのアルバム『The Lonesome Picker Rides Again』に収録されています。
とりあえず「うわー、渋いなあ」というのが正直な感想ですね。ヴォーカルが変わるとここまで雰囲気が変わるかって感じです。
クラシック・カントリーと言われれば信じてしまうくらい飾り気がなく地味なのが、逆にいい味出していると思いますね。それとやっぱりメロディーが素晴らしい。