エルヴィス・コステロ

私事ですが、このブログを始めて2年になりました。
飽きっぽくて体もあまり丈夫ではない自分が、何とか無事にこれを続けていることができるのも、偏に読んで下さっている皆様のおかげだと思っております。どうもありがとうございます。
このブログはいろいろな年代から思いついたままにネタを集めて、適当にいろいろ書いているだけの代物なのですが、そんなに好きでもなかった曲の魅力に改めて気づいたり、忘れていたことを思い出したりして、書いていてなかなか楽しいんですよね。
これからも洋邦メジャーマイナー問わずごった煮方式で、適当にのんびりやっていきますので、お暇でしたら読んで頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願い致します。


今回取り上げるのは、このブログで扱うにはちょっと大物過ぎる気もする、あのエルヴィス・コステロであります。
実は1年ほど前、このブログを読んで下さっていた方にリクエストされて、安請け合いして書きますよと返事したものの、なにしろキャリアが長い人なものでどう書いたらいいか迷ったうえ、YouTubeで探した動画がほとんど消されたりブロックされたりで観られなくなるというアクシデントもあり、そのまま面倒くさくなって放り出してしまっていたんですね。
まあ今度のエントリは2周年記念ですし、また動画もほとんどが再アップされたので、リベンジの意味もこめて改めて書くことにしました。
ただ前述のとおりキャリアの長い人で、しかも大きなブランクを作ってないので、活動の全てを網羅するのはちょっと無理かなという気もするんですよ。
とりあえず今回は彼のバックバンドであったジ・アトラクションズと、一緒に活動していた時期を中心にまとめてみるつもりです。


エルヴィス・コステロは本名をデクラン・パトリック・アロイシャス・マクマナスといい、1954年8月25日に英国ロンドンで生まれています。
父はジョー・ロス&ヒズ・オーケストラというジャズバンドでシンガー兼トランペッターだった、ロス・マクマナスというミュージシャンでした。また母親もレコード店を経営していたため、彼は幼い頃からジャズやクラシック、カントリーやフォークなどの音源に囲まれ、音楽的な素養を養いました。
また両親が彼が11歳の頃に離婚したのをきっかけとして、ビートルズ旋風が吹き荒れていた頃のリヴァプールに引っ越したのも、彼の音楽性に大きな影響を与えたことになったようです。当時好きだったミュージシャンは、ランディ・ニューマンザ・バンドだったとか。
彼は学校を卒業後ロンドンに渡り、コンピューター技師として働きながら(74年には最初の結婚をし、この頃もう子供もいた)フリップ・シティというバンドを結成、ミュージシャンとしての活動のスタートを切ります。
活動期間が非常に短かったせいもあり、このバンドの音は未聴ですが、ブリンズリー・シュウォーツに似たアーシーな感じのパブ・ロックだったらしいですね。
そしてフリップ・シティ解散後ソロの道を歩み、77年3月にスティッフ・レコードからあのニック・ロウのプロデュースにより、シングル『Less Than Zero』でデビューを果たすこととなるのです。
このときつけた芸名が「エルヴィス・コステロ」でした。「コステロ」という苗字は何となくイタリア系っぽい響きのように思えますが、アイルランド系であった父方の祖父の旧姓から取ったものなんだそうですね。
また「エルヴィス」というのは、言うまでもなくあのエルヴィス・プレスリーから取っています。これを提案したのは、所属レーベルであるスティッフのオーナーだった、ジェイク・リヴィエラだったとか。


コステロのことは中1か中2の頃には知ってました。当時「パンク世代のバディ・ホリー」みたいなコピーで売り出されてたのも記憶にありますから。
まあこちらはガキでしたので、当然バディ・ホリーなど知ってるわけもなく、だいぶ後になってから写真で見て、「ああ確かにこの黒縁眼鏡はコステロに似てるな」(実際はコステロがホリーに似せてたんですが)とか思った始末でしたが。
当時日本ではコステロも、パンク・ムーブメントの一環として紹介されていたんですけど、個人的には漠然とではあるものの、パンクとは少し違うんじゃないかなと思ってましたね。
確かにつんのめりそうなくらいに焦燥感に溢れたビートは、パンクの洗礼を浴びたと思わせるものでしたが、コード進行とかがいかにもパンクっぽくない感じで、いかにも音楽の知識がありそうなところに、パンクロッカーとの違いを感じていたんだと思います。
まあ小難しいことはとにかくとして、ソングライティングが巧妙でメロディが良かったので、コステロのことは好きだったんですよ。XTCと並んで、いかにも英国っぽい斜に構えていてひねくれたポップだと思ってました。
あと初期の頃は毒舌と言うか、思ったことをズバッと言ってしまうところがあって、そんなところにもカッコよさを感じていました。見てくれからしていかにも神経質そうに尖っていて、ヒリヒリしてましたし。


Elvis Costello - Less Than Zero


これがデビューシングル。
まだまだ荒削りではありますが、初期コステロらしさは十分に出ていると思います。
「ゼロ以下の世の中」と、怒れる若者ぶりを存分に発揮しているのがいいですね。ちなみに歌詞中の「オズワルド」とは、英国ファシスト同盟党首だったオズワルド・モズレーのことだそうです。


Elvis Costello - Alison


同じく77年にリリースされたシングル。僕が一番最初に聴いた彼の曲でもあります。
怒りと若さを正面からぶつけるような音を出していた、初期の彼の作品とは思えないくらい美しいバラードで、今聞いても良い曲だなあと思いますね。
この曲もヒットはしませんでしたが、当時オリビア・ニュートン・ジョンと並んでアメリカの歌姫的存在であったリンダ・ロンシュタットがカバーしたことにより、一躍彼の名はアメリカでも高まることとなりました。
要するにロンシュタットは彼の初期の恩人のようなものなのですが、毒舌家のコステロはそんな彼女にも辛辣で、「彼女のレコードは塩化ビニールの無駄遣いだ」とかすごいことを言ってましたね。
だったら曲を提供しなければいいのにと、中学生だった僕は思ったものでしたっけ。


この年の7月には、やはりニック・ロウのプロデュースで、デビューアルバム『My Aim Is True』もリリースしています。
バックはまだジ・アトラクションズではなく、アメリカからやってきてパブ・ロック界隈で演奏をしていた、クローバーというバンドが担当しています。
このクローバーはその後アメリカに帰り、紆余曲折を経てあのヒューイ・ルイス&ザ・ニュースになったのですが、それはまた別の話なのでここでは詳しく述べません。
とにかくこのデビューアルバムは好評をもって迎えられ、全英14位、ビルボードでも32位という、新人としてはなかなかの売り上げを記録しています。


Elvis Costello - (The Angels Wanna Wear My) Red Shoes


『My Aim Is True』からのシングル。
いかにも初期コステロらしいロックンロール・ナンバーですね。
この曲を聴くと、初期のMr.Childrenが、いかにコステロから影響を受けていたかわかる気がします。


Elvis Costello - Watching The Detectives


これも『My Aim Is True』からのシングル。全英15位に入り、初めてチャートインしたシングルとなります。
明らかにレゲエから影響を受けつつも、見事なくらいにコステロ節になってるのは、彼の個性の成せる業なんでしょうか。
ちなみにこの曲のバックはクローバーではなく、当時グラハム・パーカーのバックバンドだったルーモアにいたアンドリュー・ボドナー(ベース)とスティーブ・グールディング(ドラムス)、そして後にジ・アトラクションズで長年に渡ってコステロを支えたスティーブ・ナイーブ(キーボード)が担当しています。


コステロは翌78年3月には、早くも2ndアルバム『This Year's Model』を、やはりニック・ロウのプロデュースでリリースしました。日本ではこのアルバムから国内盤が出るようになりましたね。
この間スティッフ・レコードの創設者であったジェイク・リヴィエラがそこを離脱し、レイダーというレーベルを創設したのに付いて行く形で、彼とロウも一緒にレイダーに移籍しています。
またこのアルバムからバックはジ・アトラクションズとなり、以後6年間シャープかつソリッドな演奏で、コステロを支えていくこととなります。
メンバーは元クイヴァーのブルース・トーマス(ベース)、元チリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズのピート・トーマス(ドラムス)、王立音楽院卒で、前作から関わりのあったスティーブ・ナイーブ(キーボード)という腕利きたちで、彼らの卓越した演奏技術が初期のコステロの音楽をさらに魅力的にした部分は多分にあったと思います。
このアルバムは全英で4位、ビルボードでも30位を記録し、彼の名を不動のものとしました。


Elvis Costello & The Attractions - (I Don't Want To Go To) Chelsea


78年リリースの先行シングル。全英16位のヒットとなっています。邦題は単に『チェルシー』。
うねるようなベースとキーボード、津軽じょんがら節みたいな尖ったギター、そして明らかに苛立ちを秘めているヴォーカルが最高ですね。
コステロのシングルの中では個人的に一番好きです。


Elvis Costello & The Attractions - Pump It Up


『This Year's Model』からのシングル。全英24位。
ミディアムテンポの印象的なリフとキーボードの音色、そして攻撃的にまくし立てるコステロのヴォーカルがいいですね。
ちなみに「Pump It Up」とは「気合を入れろ」みたいな意味のスラングだとか。


Elvis Costello & The Attractions - Radio Radio


『This Year's Model』の米国盤に収録された曲。後に英国でもシングル化され、29位を記録しています。
ソリッドな疾走感と、音楽業界や政治を思いっきり批判した歌詞が気持ちいいです。
ちなみにこの曲に関してコステロは有名な事件を起こしています。
アメリカの有名な番組『Saturday Night Live』に出演した際、プロデューサーの指示で『Less Than Zero』を歌うはずだったのに、途中で中断して急遽この曲を演奏したのです。



これがその時の映像です。
ザ・タイマーズ夜のヒットスタジオで、いきなりFM東京批判の歌を歌ったのを思い出させるような(あれも最高に痛快だった)、なかなかパンクな内容ですね。
演奏が終わった直後にコステロが、ギターアンプに繋ぐプラグを引っこ抜いて出て行くところは、テレビ業界のお偉いさん達に対しての無言の抗議みたいでカッコいいです。
当然コステロのこの行為はプロデューサーの逆鱗に触れ、その後10年以上この番組から出入り禁止になってしまったのですが、今となってはこれも彼に関する伝説の一つですね。


この年の11月には、待望の初来日も実現しています。
その時も日本の学生服を着て、「エルビスコステロ今来日公演中」という横断幕をつけたトラックにメンバーと乗り込み、銀座の歩行者天国でゲリラライブを行って、警察沙汰にもなっていますね。



この頃にはもうパンク・ムーブメントも終わりに差し掛かっていましたが、当時中学生だった僕はこのエピソードを雑誌で知って、「すげえさすがパンクだなあ」と意味もなく興奮してました。若かったんだなあ。


翌79年には、やはりニック・ロウのプロデュースで、3rdアルバム『Armed Forces』をリリースしています。
内容は基本的には前作の延長線上にありますが、よりポップかつカラフルになっている他、カリブやスペインやブラジルなどの多彩なリズムが詰め込まれ、コステロの音楽の趣味の幅広さに感嘆します。
このアルバムはさらにセールスを伸ばし、全英2位、ビルボードでも10位のヒットとなっています。


Elvis Costello & The Attractions - Oliver's Army


『Armed Forces』からのシングル。全英2位という最大のヒットとなり、英国だけで40万枚を売り上げています。
この曲は非常にポップなんですが、歌詞は右翼的なものに対する批判を繰り広げていて、英国が戦争に関わると必ず放送禁止になる曲ですね。
「Oliver」とは清教徒革命で有名なオリヴァー・クロムウェルのことで、彼になぞらえて70年代後半のイギリス軍が、中等教育を終えたばかりの未熟な若者を兵士にし、戦線に送り出していたことを批判しています。
「オリヴァーの軍隊」の行き先として、香港(当時は英国領)、中国、南アフリカパレスチナキプロス北アイルランド(歌詞にある「white nigger」は北アイルランド人のこと)などが挙げられたり仄めかされたりしていて、当時の社会情勢を偲ばせます。


Elvis Costello & The Attractions - Accidents Will Happen


これも『Armed Forces』からのシングル。全英28位。邦題は『アクシデント』。
ゆるやかで心地良いグループと、短い時間に詰め込まれたアイディア、そしてコステロの声の魅力がマッチした名曲ですね。塩辛い歌詞もなかなかです。
またコステロはPVというものにあまり興味がないのか、いつもただ演奏してるだけだったり変なものだったりと、あまりにもしょうもないPVばかり作るのですが、このPVだけはアニメーションを使って妙に凝っているのが面白いです。


この後コステロは、往年のR&Bやカントリーなど、自分のルーツへ回帰していく方向に進んでいくのですが、それについては次回ということで。