ファルコ

すっかり寒くなりましたけど、皆様いかがお過ごしでしょうか。
自分はさっぱりダメです。欝っぽさはだいぶ治まりましたけど、薬を飲んでないと頭痛と眩暈がきつくて。
というわけで、週末はもう無理だろ、と思ってあらかじめ休暇を取りまして、現在自宅療養しております。
ただ一日中寝てるとさすがに気持ちが落ちてくるので、少し具合が良くなった今、恒例の更新をしているんですが。
こんな状況での更新ですので、またしても一発屋になってしまうんですけど、そこは勘弁して頂けると幸いです。
本当はXTCスペシャルズザ・ジャムエルヴィス・コステロあたりを書きたいのですが、どれも長くなりそうで現状では気力が持たないので。


今回は前回のアフター・ザ・ファイアーからの繋がりで、あのファルコです。
日本でも『Rock Me Amadeus』の一発屋として、当時洋楽ポップスを聴いていた人にとっては、あまりにも有名な存在ですね。
現代のオーストリア出身者としては、アーノルド・シュワルツェネッガーニキ・ラウダゲルハルト・ベルガー(二人ともF1レーサー)の次くらいに名を知られた人物かもしれません。
ファルコは本名をヨハン・ヘルツェルといい、57年にオーストリアのウイーンで生まれています。実は彼は三つ子のうちの一人なんですが、他の二人は死産で彼だけが生き残って生まれ出た、という話を聞いたことがありますね。
彼は学校を卒業し兵役に就いていたころにベースを習得し、除隊後プロのミュージシャンとして活動を開始します。一時はハードロックやパンクのバンドに居たこともあったとか。
そして78年には、東ドイツのスキー選手ファルコ・ヴァイスブロークからとって、ファルコという芸名を使うようになります(正確にはスキー選手のスペリングはFalkoで、kをcに代えている)。
その後彼がソロで歌った曲が、ウイーンのミュージック・シーンで話題になったことをきっかけに、81年にはソロ・ミュージシャンに転進。翌年A&Mレーベルから『Der Kommissar』をリリースすると、これが欧州中心に700万枚を売る大ヒットとなり、一躍スーパースターの仲間入りを果たすのです。


Falco - Der Kommissar


デビューシングル。欧州で大ヒットしたほか、83年にビルボードのダンス・ディスコ・チャートで10位にまで上昇するヒットとなっています。
ドイツ語、英語、イタリア語でラップをするという目新しさが受けたんだと思いますが、アメリカではアフター・ザ・ファイアーの英語でカバーしたヴァージョンのほうが受けました。


その後一時人気沈滞期に入り、彼はアルコールやドラッグに耽溺するようになります。
しかし85年には有名な『Rock Me Amadeus』をリリース。するとこれが世界中で大ヒットし、再びスーパースターの座にのし上がるのです。


Falco - Rock Me Amadeus


86年にビルボード1位、全英1位という大ヒットを記録し、一躍彼の存在を世界に知らしめた曲です。
ヒップホップのビートに載せて、ドイツ語と英語をちゃんぽんにしたラップを駆使し、偉大なるモーツァルトの生涯や奇異な人間性を茶化した曲で、最初は結構非難もされたんですが、ちょうど映画『アマデウス』がヒットしたというタイミングの良さもあり、そして何よりもその面白さが受けたんでしょう。結局は世界的な大ヒットになっています。
ちなみに英語ではない言語で歌われて全米1位になった曲は、ドメニコ・モドゥーニョの『Volare』(イタリア語。ジプシー・キングスのカバーがあまりにも有名)、坂本九の『Sukiyaki』(日本語。『上を向いて歩こう』)、ロス・ロボスの『La Bamba』(スペイン語リッチー・ヴァレンスのカバー)などがありますが、ドイツ語で全米1位になったのはこの曲だけです。


Falco - Vienna Calling


これも86年のシングル。全英10位、ビルボードでも18位とヒットしています。邦題は『ウイーン・コーリング』。
当時は別に何とも思わなかったんですが、今聴くと結構良いような気がするのが不思議です。自分だけかな。
彼の曲は基本的にエレポップ+ラップという、一見ありそうだけど意外と珍しい組み合わせなので、案外新鮮に聴けるんですよね。


彼が世界的に売れたのはここまででしたが、その後もヨーロッパ大陸では評価が高く、たくさんのヒットを飛ばしています。
そのせいか一発屋的な存在にありがちな、悲壮感みたいなものとは無縁でした。そこはミュージシャンとしては幸福だったと言えるのではないでしょうか。
ただ残念なことに彼の私生活は、音楽活動ほど順調ではありませんでした。商業的な成功も彼の心を癒せなかったのです。
まず若い頃から耽溺していたアルコールとドラッグの問題がありました。これは治療が必要なほどで、後に彼の命を奪うことになります。
また恋人との関係も順調ではなく、それでも娘が生まれたために結婚したのですが、1年ももたずに離婚。しかも後にその娘の遺伝的な父親が彼ではない、と判明するというおまけまで付きました。
これで精神的な大打撃を受けた彼は、93年を最後に充電期間に入り、96年にはアルコール依存症の治療のために、ドミニカ共和国サントドミンゴに移り住みます。
その後音楽の世界に復帰も果たしますが、98年2月6日、サントドミンゴのハイウェイで大型バスと交通事故を起こし、病院に運ばれましたが意識は戻ることなく息を引き取りました。享年40。
検死結果では彼の血液中から、高濃度のアルコールとコカインが検出されており、アルコールとドラッグをキメて車を運転したのが事故の原因と見られています。


悲惨な死を遂げたファルコですが、故国オーストリアでは今でもヒーローで、没後10年である08年には、彼の伝記映画も作られたほどです。
これは日本では未公開ですが、『ROCK ME AMADEUS - ファルコ 運命に翻弄されたスーパースター』というタイトルでDVD化されており、今でも観ることができます(僕は観てません)。



また親友だったニキ・ラウダは、自分の航空会社の最新機種にファルコの名を冠し、彼の死を悼んでいます。


半分冗談みたいな感じで取り上げてみたんですが、改めて聴いてみると着眼点とかなかなか独創的ですね。
これからも特に再評価されることはないと思うんですが、ヨーロッパから出てきた面白いポップスターとして、記憶の片隅に留めておいてもいいんじゃないでしょうか。