U2

どうもです。すっかり春めいてますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて前回、前々回とネオ・サイケのバンドを取り上げたんで、今回もそれ関連と言うか派生として一つ。
現在ネオ・サイケというのは陰鬱で沈んだ曲調、幻覚的なサウンド、リヴァーブのかかったギターなどが特徴だと考えられているんですが、80年代前半にこのムーブメントが勃興した頃は、音楽性の定義のようなものがない、もしくは非常に茫洋としていて、今となっては信じられないようなバンドがその一派とされていました。その最たる例がU2ですね。
U2を知らない人はまずいないんじゃないでしょうか。トータルセールスが1億7千万枚超とも言われる現代のモンスター・バンドの一つで、発表した作品は世界中のファンから支持されており、数多くの賞を受賞しています。また社会問題に対して深くコミットする姿勢を貫き、人権問題や反核運動、宗教紛争、貧困、薬物などをテーマとして取り上げることによって、社会に対しても一定の影響力を持っています。
そんな彼らも出てきた時はネオ・サイケに分類されていました。火を噴くような苛烈なヴォーカルスタイルは、現代のネオ・サイケの定義とは真逆なような気もしますが、ディレイを効かせた独特の硬質なギターと、初期の北ヨーロッパの冬を思わせるような凍てついた感触のサウンドは、確かにそれっぽいところがあったとも思います。
今回はそんなU2の初期作品に限って、書いてみます。まさかU2について書くことになるとは、つい一昨日まで自分でも思ってなくてビックリなんですが。


U2について語るには、まず中心人物であるボノことポール・デイヴィッド・ヒューソンについて触れなくてはいけません。
ヒューソンは1960年にアイルランドのダブリンで生まれ、中高一貫の公立学校、マウント・テンプル・スクールに通っていました。彼は破天荒な行動で学校ではかなり目立つ存在でしたが、14歳の時に母アイリスが脳動脈瘤で死亡した影響もあって、信心深い一面も持っていました。これは彼のその後の人生に大きな影響を及ぼしています。
彼は近所の悪友たちと一緒にリプトン・ヴィレッジという一派を組み、路上パフォーマンスなどをして遊んでいました。そのメンバーにはヒューソン以外にディックとデイブのエヴァンス兄弟、アダム・クレイトン、ラリー・マレン・ジュニア、フローラン・ハーヴェイ、デレクとトレヴァーのローウェン兄弟といった面々がおり、彼らは後に音楽を通じていろいろと絡み合っていきます。
またリプトン・ヴィレッジの面々は、お互いをニックネームで呼び合っていました。ヒューソンは声が大きいことから、ダブリン市街のオコンネル・ストリートにある補聴器店の名前から取ったボノ、デイブは顔や鼻の形が角立っているからという理由でジ・エッジ、ハーヴェイはギャヴィン・フライデイ、デレクはグッギ、トレヴァーはストロングマンと呼ばれ、その後もその名前で通すことになるので、このエントリでも以後をニックネームで統一します。一応クレイトンにはスパーキーとミセス・バーンズ、マレン・ジュニアにはジャムジャーというニックネームがあったんですが、これは定着せず彼らは本名で活動しています。


そんなこんなで退屈ながらも平穏な毎日が続く中、76年の9月にマレン・ジュニアが学校の掲示板に、バンドメンバー募集の貼り紙をします。父親にねだってドラムセットを買ってもらったマレン・ジュニアが、バンドを結成したくなって軽い気持ちで出したものなんですが、これが彼らの運命を変えることとなります。
何日か後に貼り紙を見て、生徒6人がマレン・ジュニアの家に集合します。その顔触れはリプトン・ヴィレッジのメンバーであるボノ、ジ・エッジ、その兄であるディック、クレイトン、そしてマレン・ジュニアの友人であるイアン・マコーミックとピーター・マーティンでした。
ドラム・セットを持っていたマレン・ジュニアがドラムス、一応ベースとアンプを持っていたクレイトンがベース(ただし当時彼はベースで一音も弾けなかったのですが)、子供の頃からギターを習っていて、ギターの自作までしていたジ・エッジ、そして彼と一緒にギターを習っていたディックがギター、ギタリスト志望だったもののそもそもギターを持っていなかったボノがヴォーカルを担当することとなり、7人組のバンドがスタートします。
彼らはこのバンドをフィードバックと名づけましたが、これはその言葉が彼らが知っている数少ない音楽用語のひとつだったことと、演奏力が稚拙過ぎて演奏していると何故か元に戻ってしまうことから付けられたんだそうです。
マーティンは最初の練習に参加しただけで来なくなり、マコーミックも数週間で抜けてしまったため、フィードバックはすぐに5人組になります。ただすでに大学生になっており、アイルランド政府から給与を受け取って大学に通っていたほどの秀才だったディックと、他のメンバーの仲は最初からいまいちしっくりいってなかったようですね。
フィードバックはその年の冬、マウント・テンプル・スクールのパーティーで初めてのライブを行いますが、これにはディックは参加していません。まあディックはこの学校の生徒ではないので、参加できなかったということなのかもしれません。ちなみにこの時演奏したのはピーター・フランプトンの『Show Me The Way』とベイ・シティ・ローラーズの『Bye Bye Baby』だったそうで、なんとも意外な選曲ではあります。
しかし彼らの演奏力は低く、カバーしようにも他人の曲をコピーすることすらままならないほどでした。ただこのため早くから作曲するようになり、自分たちのスタイルを早めに形成することができたので、世の中何が幸いするか分からないですが。


そんな中、英国ではパンク・ムーブメントが勃興します。その波は当然アイルランドにも押し寄せ、ブームタウン・ラッツ、ジ・アンダートーンズ、スティッフ・リトル・フィンガーズ、ラジエーター・フロム・スペースといったパンクバンドが、続々と頭角を現していきました。若いボノたちも当然その洗礼を受け、バンド名をよりパンクらしいザ・ハイプに変えました。
そして78年になると、彼らは若きパンクバンドの一つとして、RTAテレビの音楽番組に出演します。これはプロデューサーの前でラモーンズの曲を自分たちの曲だと偽って演奏して、好評を得たことから実現したことなんだとか。なんか今の聖人ぶりからは想像できないようなエピソードで、なかなか微笑ましいと言うか若気の至りと言うか。


U2 - The Fool


これがその時の映像です。もうホント普通のパンクですよね。
出演の決まった経緯が経緯なので、ちょっと疑ってしまったのですが、この曲は一応オリジナルです。ラモーンズの曲を演奏しているところを見たい気もしますけど。
なおこの演奏を収録した時はザ・ハイプ名義でしたが、その後すぐに彼らは名前を変え、オンエア時にはU2になっていました。


これで勢いを得たバンドは、同年3月にギネス・ビールなどの主催で行われたロック・コンテスト『Limerick Civic Week Pop '78』に出場し、36組のバンドとの戦いを勝ち抜いて見事に優勝、賞金の500ポンドとトロフィー、そしてCBSアイルランドでデモ・セッションを得る権利を獲得しました。コンテスト出身のロックバンドって、パンク以降は割とバカにされる対象だったような気がするんですが、U2もそうだというのはちょっと驚きですね。日本だとパンク・バンドのアナーキーが、実はヤマハのコンテストであるEastWestの出身だったみたいな感じでしょうか。ちなみにアナーキーはコンテスト出身であることを、ザ・スターリン遠藤ミチロウにバカにされ、その他色々なことが積み重なった挙句、最後は遠藤のところにメンバーが殴り込みをかける事件まで発生しています。
またこれを機に、他のメンバーとの間がうまくいかなかったディックが脱退しています。これでU2は4人組となり、以降一切メンバーに変動がありません。
ディックは先に書いたように大変な秀才で、この頃には勉強していた計算機科学のほうに興味の対象が移っていたため、脱退に関しては特に葛藤はなかったようです。しかし音楽への情熱が消えたわけではなく、学業の傍らリプトン・ヴィレッジの仲間であったギャヴィン・フライディ、グッギ、ストロングマンらとともにヴァージン・プルーンズの立ち上げに参画し、84年までそこで活動しています。そこを脱退後はオックスフォードやケンブリッジと並ぶイギリスの名門大学、インペリアル・カレッジ・ロンドンで計算機科学の博士号を取得し、現在は研究者として活動しつつソロ作品もリリースしています。


U2 - Street Mission


これはコンテスト優勝直後に、RTAテレビ『Young Line』なる番組に出演した時のものです。
演奏は稚拙と言うか、基本的なことしかできていないという印象ですし、曲もストレートなパンクとしか言いようがないんですが、メンバーが初々しくて良いですね。
ちなみにこの映像は先に収録した『The Fool』のより前に放送されたので、結果これが彼らの初のテレビ出演となっています。


この年の6月には全てのメンバーがマウント・テンプル・スクールを卒業(ただしクレイトンは、学校の廊下を裸で駆け抜けたために、すでに放校処分になっていました)したため、彼らはプロになることを決意し、親から一年間の猶予期間を与えられて、バイトをしながら練習やライブに励むようになります。
当初彼らの音楽は認められず、どこからも契約してもらえない状態(最近RSOレコードからの、U2の曲の不採用通知が発掘されて話題になりました)だったのですが、熱心にライブを行ううちに好評を博するようになり、79年にはようやくCBSレコードとアイルランド限定でシングルをリリースする契約を結び、同年にはシングル『U2:3』を発表しデビューを果たします。


U2 - Out of Control


U2:3』収録曲。
これまでは「ああ、パンクですね」としか言いようがない曲ばかりでしたが、かなりソングライティングの能力が向上し、未熟ながらも可能性を感じるようになっていると思います。
演奏能力もかなり伸びていると感じたんですが、まだまだサウンドに個性が出ているとは言えない状態でしょうか。


CBSとの契約はこの一枚で終わり、彼らはイギリスのレコード会社とアルバム単位での契約を取り付けようと、自費でイギリスツアーを敢行するものの、レコード会社の興味を引くことはできず、失意のうちに帰国することとなります。猶予期間の1年はとうに過ぎており、彼らは追い詰められていました。
しかしここで腹を括って行ったアイルランドツアーが成功し、また翌80年に出したアイルランド限定のシングル『Another Day』も好評だったため、ついにアイランド・レコードから声がかかり、彼らはようやくメジャーとの契約を得ることに成功するのでした。


U2 - Another Day


コロムビアからリリースされたアイルランド限定のシングル。
予算が少ないせいかサウンド・プロダクションが貧弱で、安っぽく聞こえてしまうのは否めないのですが、メロディー自体は結構良いかなと。
後年のU2のプロトタイプにはなっていて、注目すべき作品ですが、セールスとしては不発でした。


アイランド・レコードと契約したU2は、デビューアルバムの制作を開始します。
彼らはジョイ・ディヴィジョンのアルバム『Closer』をレコーディング中のマーティン・ハネットのもとを訪れ、プロデューサーになることを依頼します。そして『Love Will Tear Us Apart』のセッションにも立会い、自殺する直前のイアン・カーティスとも挨拶を交わしました。ボノはこの時のことを「イアンと話したことは奇妙な経験だった。彼はとても暖かい心の持ち主だったけれど、まるで彼の中に二つの人格があるかのように話すんだ」と後に回想しています。


U2 - 11 O'Clock Tick Tock


80年5月リリースの先行シングル。
その後リリースされたアルバムとは全然違う曲調なんですが、これは当時前座を務めたオーケストラル・マヌーヴァース・イン・ザ・ダークやトーキング・ヘッズに影響されて作ったかららしいですね。
あと初めて本格的なプロデューサーと仕事したのも大きかったようで、サウンド・プロダクションはかなり洗練されています。U2のメンバーもテクノロジーを駆使して曲を生まれ変わらせるハネットの手腕に感嘆を覚えたようで、のちに「イーノの前にマーティンありき」と語っていますが、反面ハネット色が強過ぎて、それが不発だった原因だとも考えているようです。
なおこの奇妙なタイトルは、待ち合わせの約束を忘れてしまったボノの家の扉に、親友のギャヴィン・フライディが貼り付けていったメモの内容に由来するんだとか。


U2側はデビュー・アルバムのプロデューサーもハネットに頼む予定でしたが、その直後にイアン・カーティスが自殺するという事件が起こったため、それは取りやめになります。カーティスの死はかなりセンセーショナルな扱いを受けたので、ジョイ・ディヴィジョンの色が変な形で付いてしまうのを懸念したのかもしれません。
ハネットの代わりとして、ピーター・ガブリエルXTCとの仕事で当時日の出の勢いだった、スティーブ・リリーホワイトがプロデューサーとして参加します。
独特の音響処理を得意とするリリーホワイトとの仕事は、U2にとってかなり大きかったと思いますね。彼のプロダクションによって生み出された冷たく澄んだ雰囲気は、初期のバンドにとっての武器になりましたから。


U2のデビューアルバム『Boy』は、同年10月にリリースされています。
このアルバムはとにかくジャケットが強烈でしたね。思わず惹かれてしまって、買っちゃいましたから。



この無垢な美しい目を持った少年は、ボノらの親友でヴァージン・プルーンズのメンバーでもある、グッギとストロングマンの年の離れた弟であるピーター・ローウェンです。
当時のバンドの澄んだ音楽性を象徴した素晴らしいジャケットだと今でも思っているのですが、アメリカでは児童の性的虐待を想起するとされて、メンバー4人の写真のジャケットに差し替えられているそうで、なんとも世知辛い話であります。
まあそれはとにかくとして、一聴して寒風を切り裂くような鋭いギターのリフと、ソウルを感じさせる熱いヴォーカルの対比に感嘆しましたね。特にボノのヴォーカルは決して上手とは言えないと思うんですが、パッションを伝えることに関しては抜きん出ていて、おそろしく説得力のある歌声だと思いましたっけ。
サウンドワークも明らかに英米のバンドとは違っていて、新人らしからぬ雄大なスケール感を持っているように感じました。結構大物なのかもしれないと思いましたね。さすがにここまで大物になるとは思ってませんでしたけど。


U2 - A Day Without Me


『Boy』からのシングル。
まだ荒削りですが、ジ・エッジのディレイのかかったギター・サウンドが非常に効果的で、このへんがネオ・サイケとの共通点なんでしょうね。
歌詞は自殺を扱ったもので、ボノが自殺未遂をした友人の話を聞いて、それに触発されて書いたものだそうです。


U2 - I Will Follow


これも『Boy』からのシングル。アイルランドで71位、ニュージーランドで34位。
音自体は張り詰めた感じですが、ボノのヴォーカルはあくまで優しく、意外に聞いていて癒される曲ですね。個人的にかなり好きです。
「If you walk away, walk away I walk away, walk away...I will follow」というサビが印象的な歌詞は、母親の子供に対する無条件の愛がテーマになっており、ボノは母親の立場として歌っています。これは彼が14歳の時に急死した母アイリスに向けて歌っているんだそうですね。
メンバーはこの曲を大変気に入っており、今でもライブの重要なレパートリーとして演奏され続けています。またジ・エッジは「この曲が何故ヒットしなかったか不思議で仕方ない」と語っており、その後5回に渡ってシングルカットし、ビルボードで81位、全英で72位に入れています。


『Boy』は全英52位、ビルボードで63位と、意外にもアメリカでウケがいいアルバムとなりました。
これはU2アメリカで精力的なライブツアーを繰り返したというのももちろんあるんですが、アメリカの古色蒼然とした古臭いロックや、イギリスから来る派手で享楽的なポップロックにうんざりした、大学生などの硬派なロックファンが支持したというのが大きかったようですね。実際初期のU2アメリカのカレッジ・チャートで人気が高く、R.E.M.に近い売れ方をしていました。
またピート・タウンゼントブルース・スプリングスティーンらがツアーの楽屋を訪れて彼らを激励するなど、その存在は徐々に大きくなっていきました。


その後彼らは清冽な音世界をさらに深化させる方向に進むのですが、それについてはまた次回。