ブームタウン・ラッツ

今回取り上げるのは70年代後半に活躍し、日本でも人気のあったブームタウン・ラッツです。
自分も中学高校の頃は、このバンドが好きでしたから。適度の荒々しさを持ちつつもポップで分かりやすく、またフロントマンのボブ・ゲルドフの扇情的なトークも面白かったですし。
ゲルドフが別方面で名声を得てからの言動は、いろいろ鼻についてウザく感じることも多かったんですが、それは別としてブームタウン・ラッツはいいバンドだったと思います。


ブームタウン・ラッツアイルランド出身で、カナダでジャーナリストをしていた経験も持つゲルドフを中心として、75年にアイルランドのダブリンで結成されました。
バンド名は有名なフォークシンガーであるウディ・ガスリーの自伝に登場する、ギャングの名前に由来するそうです。確か中学生の頃に読んだインタビューでは、「ブームタウンとはダブリンのことだ」と言ってたような記憶があるんですが、まあそのへんは深く追求しません。
メンバーはゲルドフ(ヴォーカル)、ゲリー・コット(ギター)、ギャリー・ロバーツ(ギター)、ピート・プリケット(ベース)、サイモン・クロウ(ドラムス)、ジョニー・フィンガーズ(キーボード)という、当時のパンクには珍しい6人という大所帯でした。
ゲルドフのカリスマが際立つバンドでしたが、いつもパジャマを着ているフィンガーズのようなキャラクターの人もいたりして、メンバーからしてユニークな感じではありましたね。


彼らはアイルランドでは最も早くパンク・ムーブメントに反応し、ゲルドフのキャラクターを生かした狂気のパフォーマンスで名を上げました。
そして77年にはロンドンに移り、そこでフォノグラム系の新興レーベル、エンサインと契約し、シングル『Looking After No.1』 でデビューを果たします。


The Boomtown Rats - Looking After No.1


彼らのデビューシングル。全英11位のヒットとなり、大成功を収めます。
スピード感のあるパンク調のロックンロールですが、ゲルドフのエキセントリックなヴォーカルスタイルはこの頃から既に全開です。


その後77年秋にリリースした1stアルバム『The Boomtown Rats』も全英18位と新人らしからぬセールスを上げ、彼らはパンク・ムーブメントの寵児となります。
彼らの場合もちろんその作品も良かったんですが、ゲルドフの強烈なビッグマウスぶりもマスコミを賑わせており、それが人気上昇に一役買っていたのは事実でしたね。


The Boomtown Rats - She's So Modern


78年4月にリリースされたシングル。全英12位。
早くもパンクからの脱却を目指しているのがよく分かる、ポップなメロディーと明るいコーラスが特徴です。
これぞパワーポップという名に相応しい曲なのではないでしょうか。


The Boomtown Rats - Like Clockwork


78年6月にリリースされたシングル。全英6位を記録しています。
「チクタクチクタク」という時計の音を模したコミカルなフレーズが印象的な曲ですが、歌詞は時間に縛られる現代人の生活を皮肉った毒のあるものです。


The Boomtown Rats - Rat Trap


78年リリースの2ndアルバム『A Tonic For the Troops』からのシングル。
この曲は全英1位を獲得する大ヒットとなりました。アイルランド出身のミュージシャンが全英1位を獲得するのは、これが初となります。
ホーンを多用してR&Bっぽい雰囲気を出しつつ、エッジの効いたギターを上手く使い分けて、メリハリのついた音になっています。


翌79年には、彼らは最大の問題作『I Don't Like Mondays』(邦題は『哀愁のマンデイ』)をリリースしました。


The Boomtown Rats - I Don't Like Mondays


79年7月にリリースされたシングル。全英1位。ビルボードでは73位。
印象的なピアノとオーケストラをバックに歌われる、パンクやニューウェーブの枠を大きく超えた作品。初めて聴いた時は驚いた記憶がありますね。
この曲は同年1月に米国カリフォルニア州サンディエゴで、当時16歳の少女ブレンダ・アン・スペンサーが小学校の校庭で遊ぶ子供たちを狙ってライフルを乱射して、校長と用務員を殺害し8人の子供と警官1人を負傷させるという事件に触発されて書かれたものです。彼女は逮捕された後に、何故銃を撃ったのかを尋ねられて、「月曜日が嫌いなの。銃をぶっぱなすと景気付けになるでしょ」と答えており、その言葉がこの曲のタイトルにもなっています。
『I Don't Like Mondays』は発売直後からセンセーショナルを巻き起こし、英国では4週連続1位を記録する大ヒットとなりましたが、米国ではスペンサーの両親がレコードの販売差し止めを求めた裁判を起こしたり、ゲルドフがラジオ局に対して敵対的な態度を取り続けていたりしていたことが災いし、ビルボードで73位という結果にとどまりました。
しかしほとぼりが覚めた頃には米国のラジオでも月曜朝の定番曲となり(ただしサンディエゴでは地元感情に配慮して、何年もラジオで流れることはなかった)、今ではアメリカでも有名な曲になっています。
ボン・ジョヴィトーリ・エイモスといった有名なミュージシャンがこの曲を取り上げるなど、カバーされることも多く、またドラマや映画にもよく使われています。


The Boomtown Rats - Diamond Smiles


79年リリースの3rdアルバム『The Fine Art of Surfacing』(邦題は『哀愁のマンデイ』)からのシングル。全英13位。邦題は『涙のダイアモンド・スマイル』。
メロディに比重を置いた良質なポップ・ナンバーです。ニュー・ウェーヴっぽいチープなキーボード演奏がいい味を出していますね。


The Boomtown Rats - Someone's Looking At You


これも『The Fine Art of Surfacing』からのシングル。全英4位。
タメを作ってからガーンと畳み掛ける演奏と、やはりニューウェーブっぽいアレンジが好きです。


ニューウェーブへの転向を成功させた彼らは、その後エスニックなリズムへの接近を始めるようになりました。


The Boomtown Rats - Banana Republic


80年11月にリリースされたシングル。全英3位。
レゲエのリズムを取り入れ、キーボードを多用した聴きやすい曲です。
しかし歌詞は中南米独裁政権やそれを支持するアメリカを激しく非難していて、その過激な内容から放送禁止となっています。


翌81年1月には4thアルバム『Mondo Bongo』がリリースされます。
このアルバムは大胆にエスニックなリズムを取り入れ、それまでの彼らの作品とは大きく異なった色合いになっていますが、メディアからは受け入れられず酷評されました。
『The Fine Art of Surfacing』的な作品を期待していたリスナーも裏切られたと感じたのか、この作品以降彼らは急速に見放されていくこととなります。


The Boomtown Rats - The Elephants Graveyard(Guilty)


『Mondo Bongo』からのシングル。全英26位。邦題は『象の墓場』(シングルの邦題は『燃えるギルティー』)。
持ち前のポップなメロディー・センスとキャッチーなコーラス、メロディアスなピアノのサウンドが映える一曲で、個人的には好きです。
B級、C級の怪獣映画に出てくるような着ぐるみが登場するPVも、間抜けな味を出していていいですね。


バンドが人気を失うと、ゲルドフは一時俳優への転向を目指し、映画『ピンク・フロイド/ザ・ウォール』に主演(このキャスティングをロジャー・ウォーターズは疑問視していた)するなどしていましたが、その後新たな道を見つけることになりました。
それは何かと言うとチャリティーです。エチオピアの飢饉を伝えるBBCのニュース報道を見て感じるものがあったゲルドフは、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロと共同で『Do They Know It's Christmas?』を作り、チャリティーシングルとして発売しました。
このシングルは激しいメディアの感心を巻き起こし、英国やアイルランドのトップ・ミュージシャンから成るプロジェクト、バンド・エイドが結成され、アフリカ飢餓救済基金を集めるための巨大なチャリティー・コンサートが開催されるまで発展していくのです。
個人的にはこの曲の「それ(飢餓の犠牲者)が君ではなく彼らだったことを神に感謝しよう」という歌詞があまりにも酷過ぎる、と思ってこれには乗れなかったのですが、ムーブメントは世界的なものとなり、アメリカでも『We Are the World』がリリースされ大ヒットするなど、一時はチャリティー・ブームの様相を呈する状況になっていました。
そんなこんなでゲルドフが名声を得る中、ブームタウン・ラッツは世の中から忘れられ、86年には寂しく解散しています。
当時「アフリカの人を救う前に自分のバンドを何とかしろよ」と思ったものですが、もはや時の人となっていたゲルドフにとって、ブームタウン・ラッツとはどういう存在だったのでしょうか。


バンド解散後、ゲルドフはアフリカの貧困層を救う活動を続け、ナイト爵位を含む数々の賞を受賞し、ノーベル平和賞候補にもノミネートされました。
彼は辛口のコメントをする人物として各方面から恐れられている一方、その名声を利用するため彼を役員に抜擢している会社(航空チケット会社、広告会社など)も幾つか存在していて、お陰で今ではかなりの資産家となっているようです。
また彼の娘ピーチズは、英国ではパーティ三昧の無軌道な生活と派手な恋愛遍歴で有名であると同時に、ファッションアイコンとしても注目を浴びています。一度彼女の写真を見たことがありますが、確かにまあまあの美人なんですけど、あちこちにタトゥーが多くて引きましたっけ(今は本人も後悔しているんだとか)。


一方他のメンバーは不遇だったようで、05年にはコット、ロバーツ、クロウ、フィンガーズが、70〜80年代の印税が支払われていないとしてゲルドフを告訴しています。
この結果がどうなったのかは調べても分かりませんでしたが、予想通りゲルドフと他のメンバーの間では、金銭をめぐって大きな溝ができていたようですね。
またフィンガーズは東京に移り住み、プロデューサーとしてLINDBERGや荻野目洋子、UAなどを手がけたり、忌野清志郎のバンドで演奏したりしていました。


【追記】

ゲルドフの娘ピーチズは、14年4月7日にヘロインの過剰摂取のため死亡しています。享年25。