ヴェルヴェット・アンダーグラウンド

どうもです。風邪気味なんですが、更新はしますので。
前回ルー・リードの追悼記事を書きましたが、スペースの都合でヴェルヴェット・アンダーグラウンドについてはほとんど触れられなかったので、今回取り上げてみたいと思います。
僕らくらいの年代にとっては、伝説的な重みを持つバンドですね。商業的な成功とはほとんど無縁でしたが、後進のミュージシャンに多大な影響を与えており、一度は聴いてみても損はしないんじゃないでしょうか。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは65年に、米国ニューヨークで結成されています。
結成のきっかけは、当時レコード会社の雇われソングライターだったルー・リード(ヴォーカル、ギター)と、ウェールズ出身で現代音楽を勉強するためレナード・バーンスタイン奨学金を得てニューヨークに渡り、アター・オブ・エターナル・ミュージックという音楽家集団に所属して、ミニマル・ミュージック作品を作曲していたジョン・ケイル(ベース、ヴィオラ)が出会って意気投合したところから始まります。
リードはケイルを誘って、ザ・プリミティブズとして約1ヶ月ほど活動したのは前回に書いたとおりですが、その間リードはピックウィックでの活動中に書いたもののボツにされた自作曲をケイルに聴かせていました。
その中で『Heroin』という楽曲に衝撃を受けたケイルは、リードと活動を共にすることを決意し、65年にスターリング・モリソン(ギター)、アンガス・マクリーズ(ドラムス)を加え、バンドを結成することとなります。
モリソンはイリノイ大学ROTC(予備役将校訓練課程)をさぼったため放校され、音楽の道に進んだ人物で、リードの友人でもありました。マクリーズは現代音楽家のラ・モンテ・ヤングが主宰したドリーム・シンジケートで、ケイルとともに活動していた人物でした。
彼らは様々に名前を変えながら、仲間うちのパーティなどで演奏するようになり、65年夏には道端で拾ったSM小説のタイトルから、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと名乗るようになりました。
しかし本格的な活動を前にした11月、マクリーズは金を払って見に来る聴衆の前での演奏を嫌ったため脱退してしまいます。
バンドは後任として、モリソンの旧友で同居人でもあったジム・タッカーの妹で、当時IBMでキーパンチのオペレーターをしていたモーリン・タッカーを迎え入れました。モリソンが彼女がドラムを叩くことを覚えていて、推薦したのが加入のきっかけだったようです。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの活動の転機になったのは、ポップアートの旗手アンディ・ウォーホルとの出会いでした。
バンドは当時グリニッジ・ヴィレッジにあるカフェ・ビザールというところを主な活動場所として演奏していましたが、自らのスタッフであるポール・モリッシーの薦めでそこを訪れたウォーホルが、彼らを観て大いに気に入ったのです。
ウォーホルはバンドに、自身が企画していたマルチメディア・イベント、エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブルでの演奏を要請しました。彼らはそれを引き受け、ダンサーが鞭を振り回しつつ踊り、ウォーホルの制作したフィルムが上映される中、演奏を行いました。
演奏は大好評で、バンドはニューヨークの文化人たちに熱狂的な支持を受けることになります。これにウォーホルも動かされ、彼のプロデュースとマネージメントでアルバムの制作が決定しました。


アルバム制作前に、パトロンであるウォーホルの提案により、ドイツのケルン生まれ(ハンガリーブダペスト生まれという説もある)の女性シンガー、ニコが加入することとなりました。
彼女は本名をクリスタ・ペーフゲンといい、10代の頃からパリでファッション・モデルとして活動後、フェデリコ・フェリーニの映画『甘い生活』に端役で出演するなどした後、セルジュ・ゲンスブールのプロデュースで映画の主題歌をレコーディングしたり、ローリング・ストーンズブライアン・ジョーンズの紹介でシングルを出したり(ちなみにB面の作曲・プロデュースはジミー・ペイジが担当している)していました。
この当時はニューヨークに渡っており、ボブ・ディランの紹介でウォーホルと出会い、彼の実験映画の女優も務めていました。ドアーズのジム・モリソンとも浮名を流していたようですね。
彼女の起用を薦めたのは、前述のポール・モリッシーだったそうです。彼はリードのヴォーカルに不満を持っており,ウォーホルを介して強引に加入を押し進めました。
バンドは一部楽曲でのみ彼女が歌う、ということを条件に加入を承諾し、ニューヨークのセプタースタジオでレコーディングを開始します。


そして67年3月にリリースされたのが、デビューアルバム『The Velvet Underground and Nico』です。
アルバムは知らない人でも、ウォーホルがデザインしたこのバナナのジャケットは、ご存知の方も多いのではないでしょうか。



このアルバムは僅か4日間で録音を済ませ、かかった予算も3千ドル未満というロー・バジェットでしたが、リードの独特の歌詞、秀逸なリフのメロウな楽曲群、そしてケイルの実験音楽的なアプローチが上手く絡み合っており、先鋭的な音楽が構築されていました。
これが発表されなかったら、少なくとも轟音のノイズや不協和音を曲中に使う手法の確立は遅れたでしょうし、パンクムーブメントも形だけのものになったでしょう。それくらい歴史的に重要な作品です。
しかしあまりに先鋭的過ぎたのか商業的には失敗し、ビルボードでは171位に終わっています。


The Velvet Underground - Sunday Morning


The Velvet Underground and Nico』のオープニングを飾る曲です。シングルカットもされています。邦題は『日曜の朝』。
チェレスタの可愛らしい音で始まり、日曜日の朝を虚脱感とともに描いた歌詞を、リードの穏やかなヴォーカルが歌うこの曲は、聴いていて非常に癒されます。
なおこの曲は実質的なプロデューサーのトム・ウィルソン(名義上のプロデューサーはウォーホルだが、彼はお金を出しただけで音楽的な指示は出していない)が、アルバムにキャッチーな要素が欠けていることを指摘し、そのためリードが職業作曲家としての経験を生かして書いたものだとか。
なるほどメロディは美しく、朝のまどろんでいる時間に聴くのにはいいかもしれません。あとレディオヘッドあたりは、この曲の影響を受けているような気もしますね。


The Velvet Underground - I'm Waiting For The Man


これも『The Velvet Underground and Nico』収録曲。邦題は『僕は待ち人』。
ドラッグの売人を待っているという強烈な歌詞(男娼の曲として解釈する人もいる)を、直線的なビートに乗せて急き立てられるような感じで歌っています。
異様にドスが効いている感じがして、個人的には好きな曲です。


The Velvet Undergound & Nico - Femme Fatale


これも『The Velvet Underground and Nico』収録曲。邦題は『宿命の女』。
ヴォーカルはニコが取っていますが、上手いのか下手なのかよく分からないながらも、独特の空気感は確かにあって、これはこれでいい味を出しています。


The Velvet Underground - Heroin


これも『The Velvet Underground and Nico』収録曲。先述したとおり、ケイルがリードと行動を共にするきっかけとなった曲ですね。
「ヘロイン 我が死となれ。ヘロイン 我が妻 我が人生」というそのものズバリの歌詞と、単純な曲なのにカオティックでドラマティックというところが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドの本質を表していると思います。
常軌を逸した毒々しさがあって、このへんはリードの初期のソロ作品にも通じるのかもしれません。


The Velvet Underground - The Black Angel's Death Song


同じく『The Velvet Underground and Nico』収録曲。邦題は『黒き天使の死の歌』。
初っ端からヴィオラが軋むような音色を奏でながら不穏に渦巻き、呪文のように言葉が溢れ出してゆく狂気の曲です。
モリソンによれば、「クラブのマネージャーからそんな曲を二度と演奏するなと言われた矢先に演奏してやったらクビになった」ということですが、そりゃそうだろうなあ。


このアルバムリリース後、バンドはウォーホルと袂を分かち、ニコも脱退します。
そして前作の実質的なプロデューサーであるトム・ウィルソンのもと、バンドは68年、2ndアルバム『White Light/White Heat』をリリースするのです。
このアルバムはどちらかというとリリカルで退廃的な感じの強かった前作に比べると、非常にノイジーで前衛色が強まっています。このへんはケイルのアプローチが主導権を取っているのでしょう。
粗野で攻撃的なロックンロール・ビートの反復の上に、倦怠感たっぷりのリードのヴォーカルがいつ果てるともなく展開される内容で、インパクトが非常に強い作品ですね。
「過激」「暴虐」「暗黒」といった言葉をいくら並べても表現できない暗いもの、激しいものを感じさせ、個人的には衝撃を受けた作品ですが、やはり一般受けはするわけもなく、ビルボードでは199位に止まっています。


The Velvet Underground - White Light/White Heat


アルバムのタイトルナンバー。
一見シンプルなロックンロールのようなコード進行ですが、演奏はカオティックで、歪みを抑え切れない感じが全編に漂っていてヤバイです。
リードはこの曲を非常に気に入っているようで、ライブでは定番になっていました。


The Velvet Underground - The Gift


『White Light/White Heat』収録曲。
単一のリフをノイジーに弾きまくる中、リードが大学時代に書いた短編小説をケイルが読み上げるという不思議な作品です。
歌詞は遠距離恋愛から生じる妄想や嫉妬を、残酷かつスプラッタなタッチで描いたもので、かなりホラーな感じですね。


The Velvet Underground - Sister Ray


『White Light/White Heat』のハイライトと呼んでしまっても過言ではない、17分半にも及ぶ大作。
聴いていると気が滅入ってしまいそうなほど単調なリズム・パターンに、ギターやオルガンのフリーフォームでアヴァンギャルドインタープレイやホワイトノイズによる爆音の嵐が延々と続く内容は、60年代のロックの最深部を封じ込めたものとなっています。ただ一言、強烈ですね。
ちなみにこの曲の録音時には、あまりの音量からあちこちの漏電がひどく、業を煮やしたレコーディング・エンジニアが「一体いつまでやるんだ。終わったら呼んでくれ」と言って出て行ってしまった、というエピソードもあるくらいです。


『White Light/White Heat』で商業的にはとにかく、音楽的には絶頂にあったヴェルヴェット・アンダーグラウンドでしたが、バンド内は不穏でした。
このバンドの持つ緊張感は、リードとケイルという音楽面での両巨頭のせめぎ合いから生じるものだったのですが、やはり一つのバンド内に二人のリーダーがいるような状態は長く続くわけもなく、両者の仲はどんどん悪化していきます。
結局はバンド運営に関する意見の対立と、女性関係のトラブルもあって、68年9月にリードはケイルをバンドから追い出してしまったのです。
バンドは後任に、ボストンのグラス・メネイジェリーというバンドで活動をしていたダグ・ユール(ベース、ヴォーカル)を迎え、活動を続行します。ユールがメンバーに選ばれたのには、当時のマネージャーであるスティーヴ・セスニックの推薦があったようですね。
そして69年には3rdアルバム『The Velvet Underground』(一般には『III』と称されることも多い)をリリースしました。このアルバムはセルフ・プロデュースとなっています。
内容としてはノイジーなアプローチはやや後退し、シンプルで穏やかで叙情的な曲が増えています。リードの歌詞もそれまでのストーリーテラーのようなものだけでなく、自己の内面の弱さをさらけ出したものが増えていき、彼の精神面での変化を窺わせます。
このアルバムは非常に聴きやすいと個人的には思うのですが、セールスはさっぱりで、バンドはついにMGMから契約を切られてしまう羽目になりました。


The Velvet Underground - Candy Says


The Velvet Underground』のオープニング曲。
12弦ギターが奏でる穏やかなアルペジオに乗って、ユールの優しいヴォーカルがキャンディという人物の物語を歌います。
非常に美しいメロディを持っていて、単純にいい曲ですね。


The Velvet Underground - Pale Blue Eyes


The Velvet Underground』収録曲。
緩やかなテンポの中、リードが穏やかな声で歌っているのですが、歌詞は彼のキャリアの中でも最も美しく残酷なもので、生々しい情感が伝わってきます。
この曲をカバーしたパティ・スミスが、リードに対して「あなたみたいな嫌な性格の人が、どうしてこんなに美しい音楽を作れるの?」と言ったというエピソードは有名です。


MGMをクビになったヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、マネージャーのセスニックの斡旋で、アトランティック・レコードに移籍を果たします。
そしてバンドは4thアルバム『Loaded』のレコーディングを開始しましたが、この頃バンドはすでにバラバラになりかかっていました。
まずタッカーが第一子を妊娠し、産休に入りました。そのため『Loaded』のドラムスは、クレジットこそタッカーになっていますが、実際はユールの弟ビリーらをはじめとするスタジオ・ミュージシャンが叩いています。
またモリソンも大学で博士号をとるための授業出席や修士論文執筆のため、レコーディングに時間が裂けなくなっていました。モリソンは実はリードがケイルを追い出した経緯を不快に思っていて、バンドに対する熱が冷めたところもあったようですね。
おまけに肝心のリードの精神状態も、移籍をめぐるごたごたやレコード会社からのプレッシャーもあって、レコーディング後半にはだいぶ怪しくなっていたようです。
曲のクレジットがリードからグループ名義に変更されたり、マスターテープからのミックスがリードに無断で変更されたりと、リード排除の動きも起こる中、結局『Loaded』発売直前の70年8月23日、軋轢に耐えかねたリードは失踪してそのまま脱退してしまいました。
その1ヵ月後にリリースされた『Loaded』は、以前のような前衛的、実験的な要素は押さえられ、ポップな仕上がりとなっていました。
リードは後に「レコード会社が勝手にリミックスした」と主張し、このアルバムに否定的な評価を下していますが、ユールはそれに対し「当時レコード会社を移り、何とか売れなければとの思いがリードにあり、ポップでコマーシャルなリミックスを施したことに対して、リード自身が後悔して言い繕ってるのではないか」と語っており、真相は藪の中です。


The Velvet Underground - Sweet Jane


『Loaded』収録曲。
非常にカッコいいグループ感溢れるギターリフと、リードの激しい歌唱が印象に残る曲です。
リードのソロライブにおいても必ず演奏されており、彼の代表作であり最高傑作のひとつと言ってもいいのではないでしょうか。
『Loaded』は制作過程でいろいろ問題を抱えていて、本人の曲作りへのモチベーションもかなり低下していたんじゃないかと思うのですが、それでもこんな曲を書けるのですからさすがですね。


The Velvet Underground - Rock & Roll


これも『Loaded』収録曲。
ポップなロックンロールにハイテンションで切実なリードの歌唱が乗ることによって、ものすごい訴求力を持った曲に仕上がっています。
パンクやガレージ系のバンドで、この曲をカバーしている例が多いのも、当然と言ったところでしょうか。


さて、中心人物のリードが抜けてしまったことにより、当然ヴェルヴェット・アンダーグラウンドも終焉を迎えたと普通は思うところですし、ここを読んでいる大多数の方もそう思っていたでしょうけど、実はそうはなりませんでした。
アトランティック・レコードとはまだ契約が残っていましたし、会社側もバンドを存続させる意向だったため、結局ユールがフロントマンとなってバンドは継続されるのです。
そのためユールがギターとヴォーカルにスイッチし、モリソンが残留、タッカーも復帰し、ベースにはグラス・メネイジェリーでユールと共に活動していたウォルター・パワーズが加入することとなり、活動は再開されました。
しかし71年にはモリソンが脱退。代わりにやはり元グラス・メネイジェリーのメンバーだったウィリー・アレキサンダー(キーボード)を加入させ、何とか活動を続けるものの、すぐにタッカーも脱退してしまい、パワーズアレキサンダーも定着せず、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの活動は事実上完全に暗礁に乗り上げました。
それでもバンドは消滅しませんでした。あと1枚アルバムをリリースする契約が、バンドには残っていたからです。残されたユールは単独で英国に渡り、スタジオ・ミュージシャンを集めて73年に5thアルバム『Squeeze』をリリースしました。
これはビーチ・ボーイズローリング・ストーンズデヴィッド・ボウイを混ぜたような、何とも言えないポップなアルバムで、ユールのソロとして聴けば悪くないのかもしれませんが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの名を冠するべきではなかったですね。
結局このアルバムは売れなかったため、ユールもバンド存続をついに諦め、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの活動にようやく終止符が打たれることになりました。


The Velvet Underground - Caroline


『Squeeze』収録曲。
まあ普通にポップなロックという感じですね。これを「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドです」と出されても困っちゃいます。
特筆すべきところと言えば、ドラムをディープ・パープルのイアン・ペイスが叩いているところくらいでしょうか。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムにディープ・パープルのメンバーが参加していた、というのは結構面白い話ではありますが。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンド解散後も、オリジナル・メンバー間では交流が続いており、時々セッションなどもやっていたようです。
交流が活発になるのは87年のウォーホルの死後で、90年にリードとケイルが共同で『Songs for Drella』を制作したのを機会に、ついにリード、ケイル、モリソン、タッカーの4人で再結成が成されるのです。
しかし92年には本格的に再結成し、ライブツアーを行うものの、途中でまたまたリードとケイルの仲が悪化し、ツアー終了後にバンドは空中分解、予定されていたスタジオアルバムは結局制作されずに終わりました(ツアーのライブ盤は出た)。
その後は一度も集まって演奏したことはありませんが、96年のロックの殿堂入りの際にはリード、ケイル、タッカーが一堂に会し、09年にはリード、タッカー、ユールの3人でイベントに登場し、いずれもインタビューに答えています。


さてメンバーのその後ですが、リードについては前回のエントリで書いたとおりです。ロック界の伝説の一人ですね。
ケイルは脱退後ソロ活動に入り、ロックから実験音楽まで幅広いフィールドで活躍している他、イギー・ポップ&ザ・ストゥージスやパティ・スミスのプロデューサーを務めています。
モリソンは脱退後音楽業界と距離を置き、リードやケイルら旧友との僅かなセッションをこなすのみでした。95年に非ホジキンリンパ腫により死去。享年53。
タッカーは脱退後子育てのために音楽業界から離れましたが、80年代末に復帰し、リードのツアーやケイルのレコーディングに参加するなど、00年代前半までコンスタントに活動していました。
ユールはバンド消滅後、元ピュア・プレイリー・リーグのクレイグ・フラーらとともにアメリカン・フライヤーを結成し、ウェスト・コースト風の音を出していました。このバンドの解散後は、レッグ・ドッグと言うバンドを結成し、カントリー・ロックの道へ進んでいるようです。
またオリジナル・ドラマーのマクリーズは、脱退後ケイルやトニー・コンラッド(リードがかつてやっていたザ・プリミティブズのメンバーでもあった)らとともに、ラ・モンテ・ヤングの永久音楽劇場に参加して、ミニマル・ドローンやエクスペリメンタル・ミュージックを制作していましたが、79年に旅行中のネパールのカトマンドゥにて他界しました。享年42。
1stアルバムにのみ参加したニコは、ソロ歌手として活動し、特にニューウェーブ・ムーブメントの中で高く評価されました。また名優アラン・ドロンとの交際でも知られ、彼との間に一児をもうけています。しかし88年に休暇で訪れたイビサ島の路上で、自転車に乗ってハッシッシを買いに行く途中に転倒して頭を打ち、脳内出血のため死去しました。享年49。
あとどうしても忘れられがちですが、末期に加入したパワーズアレキサンダーは、脱退後ウィリー・アレキサンダー&ザ・コンフュージョンズというバンドを組んでいたそうです。