マガジン

梅雨が明けたということでして、本当に暑いですね。
何度も何度もしつこいくらいに書いていることなんですが、僕は暑さというものに非常に弱く、梅雨明けから9月くらいまでは常にと言っていいくらい体調不良に悩まされています。
今年は春頃に一度大病をして入院したということもあってか、体力がかなりなくなっているようで、いつもよりさらに暑さが体に堪えるんですよね。
というわけでしばらくは、多少力を抜いた更新になることもあるかと思いますが、その点御了承頂けると何よりです。まあこのブログはあくまで動画を貼るのがキモであり、僕の文章は添え物みたいなものでして、基本的にたいしたことを書いてませんから、そんなに問題はないとは思うのですが。


さて今回は、前回名前を出したのでマガジンでいこうと思います。同時代や後世に結構影響力はあったバンドだと思うんですが、その割には知名度はいまいちですね。
当時の英国でも玄人筋にはウケたものの、その分一般のリスナーには敷居の高さを感じさせる面はあったようです。実際アルバムはそこそこ売れましたけど、シングルはさっぱりでしたし。
日本ではニューウェーブのリスナーの中でも、よりマニアックな人が好んで聴いていた記憶があります。リアルタイムでちゃんと国内盤は出ていましたから、それなりに評価されてましたし売れていたとも思うんですけど。
マガジンの特徴ですが、まずフロントマンであるハワード・デヴォートの粘着質でまとわりついてくるような声と、文学的で観念的な歌詞が上げられるでしょうか。特に歌詞は当時パンク全盛期で、直接社会に物申す的なストレートなものが主流だったこともあって、かなり異質なものではありました。
それとメンバーが凄腕揃いだったのも印象的ですね。凄腕と言ってもメタルやプログレフュージョンやジャズのプレイヤーみたいな超絶テクニシャンというのとは違って、何ともプレイのセンスが良かったんですよね。
ギターは時に煌びやかに、時にいびつに歪んで展開し、ファンクの影響を強く感じさせるベースラインがボトムでうねり、そこに一見安っぽいようでいて怪しい雰囲気を醸し出すキーボードが絡み、しかもパンクムーブメントの真っ只中ならではの熱気が重なって、独特のサウンドを築いていました。
根底に流れるのは確かにパンクなんですが、そこにプログレグラムロック、エレクトロニクスなどの要素も加味されていて、結果ちょっとデカダンな香りの漂う屈折したネオ・サイケのような音になっていましたね。このあたり英国のロック好きにはたまらん世界です。



マガジンは77年に英国マンチェスターで、デヴォート(ヴォーカル)とジョン・マッギオーク(ギター)を中心に結成されました。
デヴォートはピート・シェリーとともにバズコックスを結成したオリジナル・メンバーで、名盤『Spiral Scratch』にも参加していました(その当時の映像はかつてここで紹介しています)が、「元々それほどパンクは好きじゃなかった。いい意味でも悪い意味でもパンクには否定的なエネルギーがあった」なんて後に語っちゃうような人だったので、バズコックスの音楽性に馴染めず77年の当初に脱退します。
その後マンチェスターでアート・スクールに通っていたマッギオークと出会い意気投合。新たなバンドを作ることを決意し、黒人ベーシストのバリー・アダムソン、フレッシーズというパンクバンド(後に英国で人気コメディアンとなるクリス・シーヴィーがヴォーカルを務めていた)で活動歴があるマーティン・ジャクソン(ドラムス)、ボブ・ディッキンソン(キーボード)を集め、マガジンを結成することになるのです。
バンドは結成直後、デヴォートの古巣であるバズコックスのライブに飛び入りし、3曲を演奏するという形でデビューを果たしました。音楽性の違いで脱退したとはいえ、デヴォートとシェリーの仲は良好だったため、このようなことが可能になったようです。
これで評判を取ったバンドは、同年10月28日に正式なデビューライブを行い、その後もライブを重ねました。するとそれがセックス・ピストルズらと契約していたヴァージン・レコードに認められ、順調に契約を得ることにも成功しています。当時からかなり光るものがあったのでしょう。
しかしそれとほぼ同時にディッキンソンが脱退しています。彼はクラシック畑の出身で、ロックに対して知識も経験も不足していたため、マガジンの活動には馴染めなかったらしいですね。
そのためバンドはキーボードなしの4人編成で、デビューシングル『Shot By Both Sides』(邦題は『明日に撃て』)をレコーディングし、78年1月にメジャーデビューを果たすのです。


Magazine - Shot By Both Sides


デビューシングル。全英41位。
この曲はシェリーがバズコックスのために書いた『Lipstick』という曲のメロディーに、デヴォートが(もちろんシェリーの了解のもとで)新たな歌詞を載せたものですね。そのためマガジンの曲には珍しく、パンキッシュな疾走感を持っています。
しかしマッギオークのドライブするギターや、分厚いサウンド・プロダクション、そしてデヴォートの何とも言えぬ癖のあるヴォーカルのため、単なるパンクとは一線を画した音に生まれ変わっているんじゃないでしょうか。
バズコックスの持つストレートでポップな面と、マガジンの持つニューウェーブ的なセンスが上手く混じり合って、ハイブリッドな傑作に仕上がっていると思います。何しろ分かりやすいですしね。
ちなみに後藤明生の小説『挟み撃ち』の、英訳タイトルが『Shot By Both Sides』になっています。これは訳者のトム・ギルがマガジンのファンだったというのと、本来挟み撃ちというタイトルに相応しい「crossfire」という単語が、すでに宮部みゆきの小説『クロスファイア』の英語版タイトルとして使われてしまっていたからというのが理由だそうです。



映像もないと寂しいので、短いですけどBBCのトップ・オブ・ザ・ポップスに出演した時のを貼っておきましょうか。
この番組は基本口パク当て振りなんですが、デヴォートが口パクを大変苦手としているため、特別措置として歌わせてもらっていますね。
しかしデヴォートのルックスが何とも個性的と言うかアクが強いと言うか。短髪になったブライアン・イーノみたいにも見えますし、邪悪なキューピーにも見えますし。
当時この映像を観ていたら、ちょっと敬遠しちゃってたかもしれません。それくらい変な意味でインパクトが強いです。


その後バンドはディッキンソンの後任として、デイブ・フォーミュラ(キーボード)を迎え入れます。
フォーミュラは本名のデイブ・トミリンソン名義で、65年にセント・ルイス・ユニオンなるソウル・バンドに加入した経歴を持つベテラン(当時最年少だったアダムソンとは12歳も年が離れていました)でしたが、彼のその渋いキャリアに似合わぬカラフルな音作りは、マガジンのサウンドに更なる彩りを加えていくことになりました。


Magazine - Touch And Go


78年4月リリースのシングル。
ヴォーカルも全体的なサウンドもなんか爬虫類っぽくて、パンクと言うよりグラムロックに近い感じですかね。


そして同年6月には、デビューアルバム『Real Life』(邦題は『明日に撃て』)もリリースされ、全英29位を記録しています。
XTCなどで知られるジョン・レッキーのプロデュースによるこのアルバムは、当時欧米のメディアからも絶賛されました。ローリングストーン誌は「1978年のベスト・ロックンロール・アルバム」、メロディー・メイカー誌は「ロキシー・ミュージックテレヴィジョンのデビューと同じくらいの衝撃」なんて書いていたそうですから。
パンクのエナジーとアート的な実験精神がうまく融合したスリリングなサウンドになっており、個人的にもかなり気に入っています。


順調な滑り出しを切ったマガジンですが、『Real Life』リリース直後には、ジャクソンが音楽性の違いを理由に脱退してしまいます。
バンドは臨時にポール・スペンサーを同行させてツアーを乗り切り、その後マッギオークの誘いでオーディションを受けた19歳のジョン・ドイルを正式なドラマーとして迎え入れました。これで俗に「Classic line-up」と称される、バンド歴代最強の布陣が揃ったことになります。
この頃から音楽性は徐々に変化していき、キーボードを主体としたサウンドが主軸となっていきました。デヴィッド・ボウイのベルリン三部作あたりがニュアンスとしては近いでしょうか。


Magazine - Give Me Everything


78年11月リリースのシングル。
ベースがとにかくカッコいい、ニューウェーブ・ファンクといった趣の曲ですね。ちょっと古めかしい感じのオルガンの音色もいい感じです。


そして79年には2ndアルバム『Secondhand Delight』がリリースされます。全英38位。
デヴィッド・ボウイの『Heroes』でエンジニアを務めた、新進気鋭のコリン・サーストン(この後ヒューマン・リーグの1stアルバムや、デュラン・デュランの1st、2ndをプロデュースして名を上げました)をプロデューサーに迎えたこの作品は、ニューウエーブともファンクともプログレとも言えるような奇妙なサウンドで、賛否両論を巻き起こしました。辛口な英国メディアからは「労働者階級のピンク・フロイド」と揶揄されたりもしましたし。
僕の場合当時は若くて『Shot By Both Sides』的な曲を求めてしまっていたということもあって、正直あまりピンとこなかったんですが、ある程度歳を取ってから聴き直してみたら、緊張感と力強さがあって良い作品だと感じましたっけ。
あとG-SchmittのSYOKOが、DOLL誌だったかフールズ・メイト誌だったかで、この作品を好きなアルバムとして挙げていたのを何故かよく覚えています。


Magazine - Feed The Enemy


『Secondhand Delight』のオープニングを飾る曲。
沈鬱なキーボードとエコーのかかったベース、そしてねちっこいヴォーカルが絡んで、一種異様な世界を築き上げてますね。そりゃ中学生には理解できないや。



ライブだとパンクっぽいスピード感とラフさがあって、なかなかノリよく生まれ変わってますけど。


Magazine - Rhythm Of Cruelty


『Secondhand Delight』からのシングル。
グラマラスなギター・リフが印象的な、アップテンポのキャッチーなナンバーですが、ねっとりしているところは不変です。


Magazine - Cut Out Shapes


『Secondhand Delight』収録曲。
ねっとりとした重たいミドルナンバーですが、デヴォートのヴォーカルが気持ち悪さとの紙一重レヘルの切迫感をもって、怪しく迫ってきます。


この頃になってくると、売行きはとにかくとしてマガジンの評価はぐっと上がってきます。
とんでもない歌詞を気持ち悪く歌うデヴォートの個性は唯一無二でしたし、ライブを観ると演奏力、表現力の高さは一目瞭然だったため、他のメンバーにも注目は集まっていきました。
その実力を買われ、マッギオークはスージー・アンド・バンシーズのサポート・ギタリストに招かれましたし、マッギオーク、アダムソン、フォーミュラの3人はヴィサージの立ち上げにも関わっています(アダムソンはすぐ抜けましたが、マッギオークは1stアルバムまで、フォーミュラは解散まで在籍していました)。
ただ各メンバーの音楽的な実力が向上するにつれ、それぞれのエゴが大きくなっていき、バンドを運営するのが難しくなっていった側面もあったようです。
それでもバンドは順調に活動を続け、80年には3rdアルバム『The Correct Use of Soap』をリリースし、全英28位まで上昇させています。
ジョイ・ディヴィジョンなどを手がけたマーティン・ハネットのプロデュースによるこの作品は、オーヴァーダビングを極力抑えて、シンプルでダンサブルな内容に仕上がっています。
後にマンチェスターからはニュー・オーダーハッピー・マンデーズストーン・ローゼズなどのダンサブルでサイケなサウンドのバンドが輩出されましたが、この作品はそれらの先鞭をつけたものと考えられるかもしれません。


Magazine - A Song From Under The Floorboards


『The Correct Use of Soap』からの先行シングル。
シングルとしては地味な感じですが、
「敬意を払うべきだと認めるよ。けれど僕の中で最も輝く宝石は、自分の愚かしさにこそ悦び光るのさ」
「そういう癖なんだ。僕は虫けら。告白しなきゃな。その事実をとても誇りに思っていると」
という自虐的過ぎて悲痛な歌詞は、デヴォートの真骨頂と言えるかもしれません。
またこの曲はモリッシーやシンプル・マインズもカバーしています。シンプル・マインズはとにかく、モリッシーがこの曲を選んだというのは、痛いくらいによく分かりますねえ。


Magazine - Sweetheart Contract


『The Correct Use of Soap』からのシングル。全英54位。
ニューウェーブとファンクが程よく融合した感じですね。いい感じで力が抜けているところも、捨て難い味があります。


Magazine - Model Worker


『The Correct Use of Soap』収録曲。
彼らには珍しいストレートに疾走するスピードナンバーで、初めて聴いた時はかなりお気に入りでした。ノリがいいのでライブでも定番曲だったようです。
またここでのデヴォートはメイクをしてないので、見た目の不気味さはかなり薄まっています。自分が初めて動いているマガジンを観たのはこの映像なので、とりあえず幸いだったなと思ったりもして。


しかし絶頂だったのはこの頃までで、『The Correct Use of Soap』リリース後、ついにマッギオークが脱退してしまいます。
バンドは後任に、第一期ウルトラヴォックスの末期に在籍していたロビン・サイモンを加入させました。サイモンはマッギオークに引けを取らないくらいの腕利きで、これまでのマガジンのギター・フレーズを完璧に再現してのけて、メディアから絶賛されています。
結局サイモンは4thアルバムのレコーディング時期に、かつての盟友だったジョン・フォックスのレコーディングと掛け持ちをし、メンバーの不興を買って脱退してしまいますが、そのプレイは80年リリースのライブ・アルバム『Play』(全英69位)で聴くことができます。
その後サイモンの後任にはデヴォートの学生時代の友人だったベン・メンデルソンが加入し、そのままアルバム『Magic, Murder and the Weather』のレコーディングが行われました。
ところが激震はこれでは収まりません。81年に先行シングル『About the Weather』がリリースされた後、今度はデヴォートが脱退を表明するのです。
理由としてはデヴォートが『About the Weather』のチャートアクションに失望したためと説明されましたが、そもそもマガジンはシングルが売れないバンドで、全英チャートに入ったのが今まで2曲しかないのに、何故突然そんなことを言い出したか今でも解せないところはあります。それだけ本人的には会心の出来だったのかもしれませんが、後でアルバムを聴いた限りそんなに売れそうだとはどうしても思えなかったんですよね。
とにかく中心人物が離脱したことでマガジンは崩壊し、一気に解散することになってしまいました。『Magic, Murder and the Weather』は解散後のリリースとなり、全英39位を記録しています。


Magazine - About the Weather


件のシングル。
アクが抜けた感じで確かに聴きやすいですけど、あまりマガジンって感じはしません。ただ浮遊感は気持ち良くて、個人的には結構好きな曲なんですが。


マガジンはとにかく一筋縄ではいかない個性派バンドで、評価も非常に高かったんですが、やはりこの手のバンドはなまじ各人の個性が光るだけに、継続することが難しいのかもしれませんね。
それでも商業的成功さえあれば、分裂することは避けられたのかもしれませんが、そういうポピュラリティを持った人たちではありませんでしたし、逆にそういうところが評価されていた面もあるので、そのへんは悩ましいところです。
その後マガジンはメンバー各々のその後の活動の地味さもあって、知る人ぞ知るカルトバンドみたいな評価に落ち着いてしまいます。これを覆して再評価されるのは、後にレディオヘッドがマガジンからの影響を公言するまで待たなくてはなりませんでした。レディオヘッドは『Shot By Both Side』をカバーしていますし、ジョニー・グリーンウッドのギターを聴くと、フレージングの展開やピッキングの仕方など、マッギオークの影響を受けていることははっきり分かります。


解散後のそれぞれの進路についても書いておきましょう。
デヴォートはソロシンガーとなり、83年にアルバム『Jerkey Version of Dreams』をリリースし、全英57位まで上昇させています。
その後ザ・キュアー、ピート・シェリー・バンドに在籍した経験を持つノコ(ギター)と組んでラグジャリアなるユニットを結成、2枚のアルバムをリリースしますが、商業的な成功を得られず解散。90年代には音楽業界から引退し、写真エージェンシーの職に就いていたそうです。
しかし00年にはかつての朋友であるシェリーと組んで、バズクンストなる名義でライブを行い突如復帰を果たし、02年にはシェリー・デヴォート名義でシングルもリリースしました。
そして09年にはバンドのメンバーだったアダムソン、ドイル、フォーミュラ、ラグジャリアで組んでいたノコを呼び寄せ、マガジンを再結成しアルバム『No Thyself』をリリースしています。また11年と12年にはバズコックスのメンバーとしてもステージに立っていますね。すでに還暦を迎え、見た目もスキンヘッドになってさらに異常さを増していますが、まだまだ元気なようで何よりです。
マッギオークはかつてサポートを務めたスージー・アンド・バンシーズに加入し、『Kaleidoscope』『JuJu』『A Kiss In The Dreamhouse』といった傑作アルバムを世に出しました。
しかし82年に神経衰弱を患ってバンシーズを脱退。その後のことは前回のアーモリー・ショウについてのエントリを読んで頂ければと思います。
アダムソンは解散後、ニック・ケイヴ&バッドシーズのメンバーとして活躍後、ソロ活動に転じています。架空のサウンドトラックという体裁で次々と良作を発表し、地味ながら評価は高いようですね。
また実際の映画音楽も手がけており、デヴィッド・リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』、レオナルド・ディカプリオ主演の『ザ・ビーチ』など数々の映画に楽曲を提供しています。
その後再結成マガジンにも参加しましたが、10年に自分が監督する映画の制作に専念するために脱退しています(後任はジョン・スタン・ホワイト)。
ドイルに関しては前回のアーモリー・ショウについてのエントリを参照して頂ければ何よりです。
フォーミュラは80年代半ばにスタジオ経営で成功したため、現在はそちらを本業としつつキーボード・プレイヤーとしての活動も並行して行っています。
また再結成マガジンにも参加したほか、10年にはソロアルバムもリリースしています。
初期のキーボードプレイヤーだったディッキンソンは、本来のフィールドであるクラシックの世界に戻り、ピアニストとして活動しているようです。個人サイトにも行ってみましたが、環境音楽系のサウンドを出しているようでした。
同じく初期のドラマーだったジャクソンは、なんとスウィング・アウト・シスターの結成に参加し、『Breakout』などの大ヒットを飛ばしています。まさかマガジンからこんなオシャレ系の世界に行く人がいるとは思わなかったので、当時かなり驚いた記憶がありますね。
89年に脱退後はザ・カメレオンズにも参加。その後はドゥルッティ・コラムでも叩いていたようですが、94年以降の活動については確認できませんでした。
ジャクソンの脱退後にヘルプで叩いたスペンサーは、その後アレックス・ハーヴェイのバンドに参加していましたが、現在は映画プロデューサーに転進しています。
マッギオークの後任ギタリストだったサイモンは、ジョン・フォックスのソロ活動を手伝っていることが多かったんですが、現在はスティーブ・ストレンジ率いるヴィサージに参加し、今年になって来日公演もしています。
サイモンの後任だったメンデルソンは、一時XTCの初期メンバーだったバリー・アンドリュース率いるシュリークバックに参加していましたが、現在は3ムスタファズ3というバンドを結成し、ヒジャズ・ムスタファという変名を名乗ってワールド・ミュージックの世界で活動しています。