プラスチックス

どうもです。今日は前振りとして、自分の恥ずかしい話をしましょう。
僕がアイドル好きであるというのは、ここにもたまに書いたりしていますが、実は先週の土曜日に、某グループアイドルの握手会なるものに行ったんですよ。
この歳でそういうところに行っているということ自体が、相当恥ずかしい気もするのですが、本題はそこではなく。
その中にあの佐久間正英の親戚(父親が彼と従兄弟)に当たるという子がいるのです。まあ当人は小さい頃に一度会ったことがあるだけで、その偉大さに直接触れていたわけではないらしいですが。
佐久間正英と言えば日本のロックの名プロデューサーとして、業界ではかなり有名な人です。最近末期のスキルス胃がんであることを、自身のサイトで公表して話題にもなりました。
で、今回はお見舞いの意味もあって、彼の名前を出したんですよ。「早く治るといいですね」みたいな感じで。
そしたら彼女は「(佐久間の)曲聴いたことあります?」って聞いてきたんですね。尊敬する自分の親戚の手がけた仕事が、どれだけ人口に膾炙していたかを確認したかったのかもしれません。
で、普通こういう場合はGLAYとかBOOWYとかJUDY AND MARYとか黒夢とかラルクとかくるりとかHYとか、そのへんの今の若い人にも知名度の高い名前を出しておけば済む話じゃないですか。
でも僕の場合思いっきり素で「うん、プラスチックスとか聴いてた」と言っちゃったんですね。ええ、向こうはさすがに当惑してました。30年以上も前のバンドの名前出されても、そりゃ知らないですよ。
僕は苦労や人生の年輪が全く顔に出ないタイプで、悪い意味で若々しいところがあって、30代と思われることも多いのですが(勿論お世辞もかなり入ってるでしょうけど)、いくら若作りしてもこういうところでボロが出ます。
まあ「四人囃子」とか言わなかっただけ、マシだと思うしかないですねえ。というわけで、今回取り上げるのはプラスチックスです。


プラスチックスは70年代末のニューウェーブの時代に、いち早くテクノポップを取り入れたサウンドを提示し、当時の日本のバンドとしては珍しく海外でも評判になったバンドです。
このバンドは76年、イラストレーターの中西俊夫(ヴォーカル、ギター)、スタイリストの佐藤チカ(ヴォーカル)、グラフィック・デザイナーの立花ハジメ(ギター)が中心となって、東京で結成されました。
と言ってももともとは単なる仲間内での余興のパーティ・バンドに過ぎず、演奏する音楽も最初はテクノポップとは全く関係ないオールディーズだったそうなのですが。
しかしこの仲間うちの集まりに、四人囃子で活躍していた佐久間正英(キーボード)が加入することによって、どんどん内容や活動が本格的になり、サウンドも当時黎明期を迎えていたテクノポップになっていきます。
そして佐久間の紹介で作詞家の島武実(リズムボックス)が加入することによって、全盛期のラインナップが完成するのです。本職のミュージシャンは佐久間だけという、ノン・ミュージシャンの集まりである編成は、当時の日本では非常に珍しく斬新な感じがしましたね。


79年に彼らは、英国のインディーであるラフ・トレードから、シングル『Copy』でデビューを果たし、コアなリスナーから注目されます。
ラフ・トレードと言えばザ・スミス、アズテック・カメラ、スクリッティ・ポリッティモノクローム・セット、ポップ・グループなどを輩出した英国インディー界の雄ですが、こんなところで日本と関わりがあるというのはすごいですね。
ここからデビューすることになった経緯は、佐藤の知り合いのカメラマンの奥さんが英国人で、彼女がプラスチックスのデモテープを気に入ってお里帰りの時に持って帰ると、それがいつしかラフ・トレード側の人間の手に渡り、うちから出さないかという話になったんだそうです。
今では考えられないくらいのどかな話で、いい時代だったんだなと思わされますね。ちなみに印税は300円くらいだったとか。
これに限らず彼らの活動は、交友関係から生じる軽いノリで進められていったものが多く、特に戦略性などはなかったと、後年になってメンバー各々が語っています。


プラスチックス - Copy

D


これが彼らのデビュー曲です。
最初に聴いた時はチープなシンセと、リズムマシンの音がすごく新鮮に聞こえたのを覚えていますね。
まだ中学生だったこともあって、ふざけているのか真面目にやっているのかその境界線が見えなくて、評価に苦しんだこともあったんですが、今聴くとチープでありながらニヒルなところもあり、それでいてオシャレな感じなのがすごいと思います。


そんなこんなで翌80年には日本に逆輸入される感じでデビューし、シングル『トップ・シークレット・マン』とアルバム『WELCOME PLASTICS』をリリースします。
これは評判を呼び、当時P-MODELヒカシューと並んで「テクノ御三家」と呼ばれるようになりました。個人的にはP-MODELが一番好きだったんですけど、プラスチックスもラジオでちゃんとチェックしてましたっけ。


プラスチックス - トップ・シークレット・マン


日本でのデビューシングル。
いきなりベンチャーズを思わせるようなレトロなギターで始まり、「トットトットットップシークレット」と素っ頓狂な声で叫ぶところが気に入って、結構何度も聴いた記憶がありますね。
今でも彼らの曲の中では、これが一番好きだったりします。


その後彼らは立花や佐久間の伝手もあって、早くも全米ツアーが決定し、B-52'sと一緒にアメリカを回って大反響を得ました。
この両者はサウンドやバンドの雰囲気がすごく似ているんですよね。同時期に日本とアメリカでこういうバンドが存在していたのって、ある意味奇跡的なことなのかもしれません。


彼らの活動ペースは衰えることなく、同年には早くも2ndアルバム『ORIGATO PLASTICO』をリリースしています。
このアルバムはアマチュアならではの遊び心が溢れているけど反面素人っぽい前作と比べると、全米ツアーの影響もあるのか音楽的にかなり成長している部分が見られます。
とにかく音楽の構成が結構複雑になっていて(あくまで前作に比べたらですけど)、早くも円熟味さえ感じられるのですが、それでもプラスチックスならではのユーモアは失われていません。


プラスチックス - good

D


とにかく初っ端のMCを担当しているのが、あのクラウス・ノミだというのが泣けます。
ノミとプラスチックスが一緒に写っている写真は見たことあるんですが、こういう形で映像化されているのは初めて見ました。いやーすごい映像だと興奮。
音はなかなかクールですね。POLYSICSがカバーしたこともあるので、若い人の中にも知っている人がいるかもしれません。


プラスチックス - PEACE


これも80年リリースのシングルです。
素朴な音ですが、初期に比べると普通に曲になってますね。


その後彼らはラモーンズトーキング・ヘッズアメリカで共演やツアーをし、更なる好評を得ます。
そしてアメリカのメジャー・レーベルであるアイランド・レコードと契約し、81年には3rdアルバム『WELCOME BACK』が日本とアメリカ、イギリス、ドイツで発売されました。
このアルバムは1stと2ndからピックアップした10曲を再レコーディングしたもので,より洗練された音になっていましたね。
この頃にはリズムをプログラミングで作ることが可能になっており、リズムボックスの島がキーボードとなり、代わりにキーボードの佐久間が本職のベースを弾くなど、演奏的な幅も広がっていたようです。


しかしこの年、プラスチックスはいきなり解散し、あっという間に僕らの目の前から姿を消してしまいました。
解散理由は「飽きたから」と発表されたように記憶していますが、実際は素人だった佐久間以外のメンバーが、ミュージシャンとしてのポテンシャルを上げていくにつれ更なる向上心が芽生え、あくまで素人感覚を重視した佐久間との方向性の相違が生じたからのようです。
プロミュージシャンである佐久間が素人っぽさにこだわり、素人のメンバーのほうが音楽的な向上を望んだというのは、何とも皮肉な感じがしますが、世の中って意外とそんなものなのかもしれません。
あと佐久間は自分がプロであるからこそ、逆に素人だけが出せる狙ってない面白さというものにこだわりを見せた、というところもあるんでしょう。


解散後のメンバーの進路ですが、中西と佐藤は新ユニット、MELONを結成し活動します。このユニットはニュー・ウェーブ・ファンクとも呼ぶべきサウンドで、オシャレな若い子たちに人気があったように記憶しています。
また二人は結婚して子供も儲けていますが、のちに離婚しています。現在はMELONも解散しており、中西はいくつかのユニットで活動するほかプロデューサーとしても活躍し、佐藤は音楽から身を引き自らの名を冠したアパレルブランドを設立するなど、元いたファッションの世界に戻っているようです。
立花はサックス・プレイヤーに転身し、ソロとして活躍しました。その後本業に重点を置いた時期もありましたが、今はまたバンド活動も再開しているようです。
佐久間はプロデューサーとして大成功を収め、数々の人気バンドを手がけています。特にGLAYJUDY AND MARYが有名ですが、他にもブルーハーツエレファントカシマシやZELDA、筋肉少女帯TOKIOテレサ・テンなど、様々なジャンルのミュージシャンと幅広く仕事をしています。
島は作詞家として活動する一方、ダウンタウンの番組のアドバイザーを務めるなど、割と我々に近いフィールドで活動しているようです。


さてプラスチックスのほうですが、88年にインクスティック芝浦で2日間だけ再結成したことはあるものの、基本的には長い沈黙を守ってきました。
しかし07年には中西、立花、佐久間に元シンプリー・レッド屋敷豪太(ドラムス)を加え、オルタナ色の強いサウンドともに帰ってきています。佐藤がいないのは残念ですが、もう中西とは離婚していましたし難しかったんでしょう。
その後10年には往年のテクノポップを思わせる音楽性に回帰し、東京と大阪でライブを行ったほか、ライジング・サンなどのフェスにも参加しています。
僕は新生プラスチックスのライブは映像も観ていませんが、中西と佐藤の娘が留学先のロンドンから帰国して佐藤のパートを務めるなど、リラックスした内容になっているみたいですね。