P-MODEL

どうもです。最近急に暑くなったりして、なんか変な天気ですね。今日の昼間は強風が吹き荒れてましたし。
こういうときは必ず体調を崩すので、その前にちゃっちゃとP-MODELの続きを書いてしまいましょう。
今回は思いっきり詰め込んであるので、かなり動画の量が多いです。続けて観るのは大変かもしれませんけど、そのへんはご了承願います。


さて、84年に『ANOTHER GAME』での歌詞修正問題で、徳間ジャパンとの契約を解消したP-MODELは、YMOなどで有名なアルファレコードへ移籍します。
しかし同年8月にベースの菊池が脱退してしまったため、当時関西の新進テクノバンドとして頭角を現してきた、4-D mode1というバンドのベーシストだった横川理彦を、強引に引き抜く形でバンドに加入させました。
このバンドのリーダーであり、のちにP-MODELのメンバーにもなった小西健司によると、当時突然P-MODELマネージャー氏から「横川を連れていく」との言葉と共に連れ去られたのだそうで、本当に急なメンバーチェンジだった事を窺わせます。
そしてこの年の10月には平沢と三浦のみで、JICC出版局(雑誌『宝島』を出していたところですね)からカセットブックとして『SCUBA』をリリースしました。これは89年に、キャプテン・レコードからCD化もされています。
『SCUBA』は一応P-MODEL名義でのリリースですが、ほぼ平沢が一人で作った(ところどころ三浦が手伝っている)ため、正式なP-MODELのアルバムとしてはカウントされていないようですね。
このアルバムは前作までのダークでシュールな雰囲気を一掃し、ほぼシンセで埋め尽くされたポップな内容となっています。


P-MODEL - FROZEN BEACH


壮大なシンセの音で幕を開ける、非常に分かりやすいポップなナンバーで、以降のサウンドはほぼこの路線を反映しています。


しかし同年付で、今度はマンドレイクから一緒にやってきたドラムスの田井中も脱退してしまいます。これでバンドのオリジナルメンバーは平沢のみとなりました。
田井中の後任には同じく84年で解散した、パンクバンドのALLERGYで叩いていた荒木康弘が加入しました。僕はALLERGYもよく聴いていて、荒木の変則的なドラミングが大好きだったんですが、さすがにP-MODELに加入するとは思わなかったので、かなり驚いた記憶がありますね。
あと荒木は当時ロッキング・オン誌にいた増井修(のちに編集長)と学生時代の友人で、その縁でロッキング・オン誌に、加入したばかりの荒木のインタビューが載ったこともありましたっけ。
こうしてメンバーチェンジを済ませた彼らは、翌85年に6thアルバム『KARKADOR』をリリースしました。このアルバムは横川のバイオリンをフィーチャーするなど、これまでにはなかった音楽的な要素が多く捨て曲もないため、個人的には中期P-MODELの代表作だと思っています。


P-MODEL - サイボーグ


『KARKADOR』収録曲。
ポップなメロディーに象徴的な歌詞、小気味の良いドラムで盛り上がる曲調が印象的な、このアルバムのハイライト曲ですね。


P-MODEL - サイボーグ


91年の日比谷野音でのライブ。これは実際に観に行ったので、せっかくですから載せました。
勿論ライブ自体も素晴らしかったんですが、当時のメンバーだったことぶき光が、キーボードを前代未聞の配置をしていた(映像でも確認できる)のが、ものすごく印象に残ってますね。


しかしこのアルバムに伴うツアー終了後、三浦と横川が音楽性に疑問を持ったことが原因で脱退してしまいました。
当時のP-MODELは完全に平沢の個性に引っ張られるバンドになっていたので、その後もメンバーの交代は相次ぐようになります。ワンマンバンドゆえの仕方ないことなんでしょうか。
平沢はバンドのローディとして帯同していた中野照夫(ベース)、ROOMなるバンドでキーボードを弾いていた高橋芳一(システム)を加入させ、86年には7thアルバム『ONE PATTERN』をリリースします。
このアルバムは平沢がMIDIギター、高橋が打ち込みのドラムやシーケンサーサンプラーを使用するようになり、さらにデジタル化が進んだアルバムとなりました。


P-MODEL - Another Day


『ONE PATTERN』からのシングル。
彼らにしてはストレートな楽曲で、スカッとした華やかさがあり、シングルに相応しいと思います。
ただPVに関しては不満が大きかったらしく、平沢はこの後独力で映像作品を制作するためにAMIGAを購入し、以降多用するようになります。


しかしこの後バンドの活動は停滞していきます。
87年頃からアルバム『モンスター』の制作を開始するも、レコード会社との交渉が難航します。また4月には一身上の都合で荒木が脱退、代わりに田井中が「パート2」と称して復帰しましたが、9月には高橋も脱退してしまい、混乱の極致に陥るのです。
高橋の代わりにはことぶき光(キーボード)が加入しましたが、アルファレコードとの話の拗れはなおも解消されず、結局『モンスター』はお蔵入りとなり、失意の平沢は88年12月の渋谷CLUB QUATTROでの公演をもって、「凍結」と銘打ち活動の休止を宣言するのです。


その後平沢はソロとして活動し、3枚のアルバムを出すなど精力的に活動していました。
しかしやっぱりP-MODELとしての活動を望んでいたようで、91年9月に「解凍」と称してライブ活動を再開し、レコード会社もポリドールに移籍し、2年間の期間限定ながらバンドを再始動させました。
メンバーは平沢に加えて、凍結するまでのキーボードだったことぶき、オリジナルのベーシストだった秋山勝彦(キーボード)、ザ・グルーヴァーズのメンバーでもある藤井ヤスチカ(ドラムス)の4人です。
他の二人はとにかくとして、まったくP-MODELとは縁もゆかりもなさそうなザ・グルーヴァーズの藤井の加入(専任ではなく掛け持ち)は驚きだったんですが、どうも事務所の後輩だからという単純な理由だったようですね。
解凍期の彼らは、まず92年に8thアルバム『P-MODEL』をリリースします。それまで意図的に封印していた「テクノポップ」を逆に前面に押し出すようになり、サイバーでメカニカルな音になっていました。


P-MODEL - SPEED TUBE


P-MODEL』収録曲。
疾走感溢れるハイスピード・チューンで、新たなるP-MODELの誕生を宣言する一曲です。


P-MODEL - 2D OR NOT 2D


これも『P-MODEL』収録曲。
平沢とことぶきの共作で、初期のパンクっぽさと90年代以降のサイバーな音が、ちょうど中間地点で出会ったような感触に仕上がっています。
平沢がAMIGAで作ったPVも、強烈なインパクトを放っています。


P-MODEL - 幼形成熟ボックス


93年リリースの9thアルバム『big body』収録曲。
ことぶきと平沢の共作で、歌もことぶきが歌っています。眩いばかりのピコピコ音が弾け飛んでいて、アシッドっぽい中毒性を感じますね。


解凍期P-MODELは予定通り2年で活動を終え、その後バンドは「待機」と称した活動停止状態に入ります。
しかし94年暮れには、平沢以外のメンバーを一新し、再び活動を開始しました。この時期は「改訂期」と呼ばれています。
改訂期のメンバーは平沢、前述した4-D mode1のメンバーだった小西健司(システム)、小西の友人でコントロールド・ボルテージという関西のテクノバンドにいた福間創(システム)、元グラスバレー(僕の弟が好きなバンドでした)のドラマーで、平沢のソロツアーでも叩いていた上領亘(ドラムス)でした。
この時期は平沢と小西の二頭体制となっており、楽曲のほぼ半分は小西が手がけています。またさらに電子楽器の比重が高まったことにより、バンド色がかなり薄くなっているのも特徴でしょうか。
彼らはレコード会社も日本コロムビアに移り、95年暮れに10thアルバム『舟』をリリースしました。このアルバムは解凍期のピコピコしたサウンドとは異なり、ポップではありますが静的な感が強く、アンビエントへの接近かと思わせるほどでした。


P-MODEL - 夢見る力に


『舟』収録曲。
平沢と小西の共作ですが、この分かりやすいポップさは小西のセンスが大きいかもしれません。


96年には平沢と所属事務所アイスリープロモーションとの間が拗れ、バンドは独立して新事務所ケイオス・ユニオンを設立します。その混乱の中、上領はソロに専念するため脱退しました。
それ以降バンドはドラマーを入れることなく、CGのドラマーであるTAINACO(元メンバーの田井中を模していて、AMIGAMIDI信号で動作する)をメンバーとし、実質三人体制で活動する事となります。
そして数枚のシングルをリリースした後、97年には11thアルバム『電子悲劇/〜ENOLA』をリリースしました。このアルバムはサイケ、トランス、レイヴ、クラシック等を取り入れ、攻撃的で破壊的な作品に仕上がっており、後期P-MODELの中ではお薦めですね。


P-MODEL - Rocket Shoot


『電子悲劇/〜ENOLA』発表前にリリースされたシングル。
これは割とかつての平沢節を残しているでしょうか。のたうつシーケンスがいい感じです。


P-MODEL - LAYER-GREEN(Ver.1.05 Gold)


『電子悲劇/〜ENOLA』収録曲。
爽快感すら覚えるような軽やかな疾走曲で、ギターソロがバッチリ決まっていてカッコいいです。


P-MODEL - ASHURA CLOCK


これも『電子悲劇/〜ENOLA』収録曲。
サイケデリックトランスの上に現代音楽を乗っけた感じなのに、サビのメロディーはポップという不思議な曲です。
また歌詞の一部に人身売買を連想させるフレーズがあり、それをレコ倫に指摘されたため該当箇所を当て字としています。


99年になるとかつてからインターネットに並々ならぬ興味を示していた平沢は、所属していた日本コロムビアを離脱して楽曲をMP3で配信することを発表します。
そしてその年の9月には、12thアルバム『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』をリリースします。基本はホームページでのMP3配信でしたが、パソコンを所持していないリスナーのため、インディーズでCDも発売されました。
確かインターネットでの楽曲配信を行ったのは、プロのミュージシャンでは彼が最初だったのではないでしょうか(違うかもしれない)。その意味では記念すべきアルバムでしたね。


P-MODEL - 論理空軍


『音楽産業廃棄物〜P-MODEL OR DIE』収録曲。
プログレを思わせる実験的な進行と、エンターテイメントとしてのカタルシスを両立している曲です。歌詞もなんか深そうですし。
PVでは飛行機に乗ったメンバーが、レコード会社を爆撃するという攻撃的なシーンが収められ、話題を呼びました。


この頃のP-MODELは、東京にいる平沢と大阪在住の小西がインターネットを通じて共作するという形になっていて、ほとんどバンドとしての体を成してはいませんでした。
平沢もそれに気づいたのか、00年の12月に「培養期」という活動停止に入ったことを宣言、バンドは事実上解散することとなりました。
のちに平沢一人で核P-MODELというプロジェクトを始動してはいるのですが、バンドとしてのP-MODELの再開自体は当人が乗り気ではないようです。
現在平沢はソロとして活躍しています。アジアに接近したり、JASRACによる著作権管理に疑問を持ち、著作権管理団体を乗り換えるなど、様々な動きをしています。
ソロになってからのことはあまり詳しくないので、知ってる作品をちょっとだけ紹介しておきましょう。


平沢進 - BERSERK 〜Forces〜


アニメ『剣風伝奇ベルセルク』の挿入曲です。
壮大かつ重厚な世界観を持つダーク・ファンタジーである原作を、2クールで表現すること自体無理があって、個人的にはアニメの評価は高くないですが、この曲は良いですよ。
重厚なコーラスを使った壮大なサビと、アシッドっぽいベースがリフになっているところが好きですね。


また平沢は、P-MODEL時代からいろんな仕事をしています。


異母犯抄 - パワー・ホール


ご存知プロレスラー長州力のテーマとして、当時生きていれば大抵の人が知っている曲ですが、これは異母犯抄名義で平沢が作っています。
サウンドは今聴くとチープではありますが、中毒性のある作りになっていて、入場テーマとしては素晴らしい出来なんじゃないでしょうか。
この曲を依頼された平沢は全くプロレスのことを知らなかったため、メロディーラインを三音にしてシンプルなテクノポップ調のこの曲を、苦し紛れに書いたというエピソードが残っています。
また平沢はカルガリーハリケーンズ高野俊二、ストロング・マシーン、ヒロ斎藤)のテーマ『ハリケーンズ・バム』も、福来良夫名義で提供しています。『パワー・ホール』が好評だったんでしょう。


また楽曲提供も何人かにしています。


宮村優子 - Mother


アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流・アスカ・ラングレー役で有名な、声優宮村優子のソロシングルです。98年リリース。
今聴くと宮村のヴォーカルが稚拙なせいもあってか、ボカロのように聴こえなくもないですが、歌詞もアレンジもいかにも当時の平沢っぽくて好きです。
僕は当時アニメにはまっていて、彼女のアルバムも買っていたので、平沢が曲を提供すると知って喜んだ記憶がありますね。
宮村は平沢以外にも関口和之サザンオールスターズ)、高浪敬太郎(元ピチカート・ファイヴ)、田中公平大槻ケンヂ筋肉少女帯)、鈴木慶一ムーンライダーズ)、タケカワユキヒデゴダイゴ)、野村義男小西康陽ピチカート・ファイヴ)、戸川純、破矢ジンタ(ジッタリンジン)、周防義和硨島邦明長谷部徹といったメンツに歌詞や楽曲の提供を受けたり、カステラや新東京正義乃士の曲をカバーしたりと、破天荒な面白さがありましたっけ。まあ歌は下手なんですけど。
しかし見事なくらいプロレスとアニメに偏ってしまいました。いかに昔の僕がいろんなジャンルに首を突っ込んでいたかという証明なんですが、平沢ファンの人が見たら怒るラインナップかもしれないですね(苦笑)。


平沢以外のメンバーの消息についても触れておきましょう。
田中靖美P-MODEL脱退後は音楽から身を引き、アジアやアフリカの商品を取り扱う会社を経営しているそうです。核P-MODELにもゲスト参加していました。
田井中貞利も音楽業界を引退し、整体師やフィギュアショップ経営などの職に就いていました。一時は消息不明となり、平沢らを心配させていましたが、現在は所在が確認されているようです。
秋山勝彦は最初の脱退後は歯科医大に入学するものの中退し、その後インドを放浪します。帰国後はLIZARDのモモヨと夢幻会社というユニットを結成したり、元ハルメンズヒカシューの泉水敏郎らとHERE IS EDENというバンドで活動したりし、あのイカ天に出場したこともありました。二度目の脱退後はAfter The Rain名義でソロ活動をしています。
菊池達也は佐久間姓に改姓し、一時は原宿でレコードショップを経営していました。今もファンイベントにDJとして顔を出すこともあるようです。
三浦俊一はあの有頂天に加入(ミューという名前で活動していた)後、現在はインディーズレーベルの社長になっているそうです。
横川理彦と小西健司は4-D Mode1に戻って、音楽活動を続けているようです。横川はメトロファルスで活動していた時期もありました。
荒木康弘はコンピュータープログラマーに転進し、ソフトハウスのチームリーダーを務めるほか、恒松正敏GROUPのメンバーとして活動中です。
中野照夫は元有頂天のケラ、元筋肉少女帯みのすけとのLONG VACATIONを経て、現在はソロ活動中です。
高橋芳一はUnder Techno System(UTS)なるアナログ電子楽器群の開発に従事するほか、ソロ活動も行っているようです。
ことぶき光プノンペン・モデルなるユニットを結成し活動中。欧州ツアーもするなど、局地的に評価は高いようです。
藤井ヤスチカはもともと兼任だったザ・グルーヴァーズに戻り、根強いファンを持っています。
上領亘は新民族歌謡ユニット、NeoBalladで活動する他、ヴィジュアル系バンドのプロデュースもしているということです。またT.M.Revolutionのサポートをしていたこともありました。
福間創はsoyuz projectというソロユニットで活動しているようです。ヤプーズのライブにゲスト参加したこともあります。
これら元メンバー同士の関係はおおむね良好で、平沢は彼らと何度も共作、共演をしています。バンドはなくなってしまいましたが、仲違いとかそういうどろどろしたものが残らなかっただけでも、良しとするべきなのかもしれませんね。