スパンダー・バレエ

あけましておめでとうございます。皆様年末年始をいかがお過ごしでしょうか。
こちらは5日間もまとまった休みが取れましたので、年末はもう一つやっているアイドルブログのほうを久しぶりに立ち上げ、去年のアイドルソングの中で良かったと思う曲を70曲以上紹介するという、狂った更新をやっておりました。
3日もかけたせいでおかげさまで満足いく内容となったのですが(本当にただ曲を紹介してるだけですけど)、終わったと思ったらもうこっちのほうの更新をやらなきゃならないことに気づいて、あわてて動画を漁るという正月らしからぬことになってるんですよね。まあ好きでやってることですから問題ありませんが。
今年も去年と変わらずゆるゆると更新していくことになると思います。引き出しは浅いながらも多いので、ネタ切れの心配も当分はないはずですし、体調さえ崩さなければ週一ペースでいけるんじゃないでしょうか。
というわけで、皆さんどうぞ今年もよろしくお願い致します。
それと年末には30万PVに達しておりました。今までやっていたブログの中で、ここが一番PVが多いことになりましたね。
これも読んで下さっている皆様のおかげです。厚く御礼申し上げます。


さて今回はそこそこ大物のスパンダー・バレエを取り上げてみようと思います。これは結構好きでしたね。
このバンドはデュラン・デュランと並ぶニュー・ロマンティックの旗手で、その後うまく生き残りアメリカでもヒットを出しています。特に『True』は有名で、結構知っている人は多いんじゃないでしょうか。
個人的には『True』よりもそれ以前のインチキ臭い路線のほうが好き(もちろん『True』も名曲だと思う)ではあるんで、とりあえず初期の頃を中心に『True』『Gold』くらいまでいってみようと思っています。


スパンダー・バレエは英国ロンドン市内のイズリントンで、76年に結成されたザ・カットというグループが母体になっています。
このバンドは地元の学校に通う生徒たちで結成されたグループでしたが、もともとこのバンドにいたゲイリー・ケンプ(ギター)とスティーブ・ノーマン(ギター、サックス、パーカッション)が、学友であるジョン・キーブル(ドラムス)、キーブルの友人であるマイケル・エリソン(ベース)、ノーマンの知人だったトニー・ハドリー(ヴォーカル)を加え、有名なクラブであるロキシーなどで活動を行うようになります。
しかし数ヶ月でエリソンは抜けてしまい、代わりに入ったリチャード・ミラーもすぐに辞めたため、ゲイリーは実弟のマーティンをバンドに加入させました。
これでラインナップを固めたバンドは、名前をスパンダー・バレエに改名します。この風変わりな名前は、西ドイツのベルリンにあるナイトクラブの便所で見かけた落書きに由来しているのだとか。
それまでの彼らはローリング・ストーンズキンクスに影響を受けた、正統派のブリティッシュ・ロックを演奏していたらしいんですが、改名後はクラフトワークテレックスなどのテクノポップの影響を受け、シンセを導入した音に変貌していきました。
そしてメイクを施しフリルのついた服を着、享楽的なダンス・ミュージックを演奏するようになります。そういうバンドの一群は、ニュー・ロマンティックもしくはフューチャリストと呼ばれ、当時の先進的なクラブであったブリッツを中心にムーブメントになっていきます。
するとそれがロンドンで評判を呼び、バンドはアイランド・レコードとの争奪戦の末クリサリス・レコードとの契約を得ることになりました。
彼らは80年11月にシングル『To Cut A Long Story Short』(邦題は『早い話が…』)でデビュー、するとニュー・ロマンティックの旋風に乗り、このシングルは全英5位まで上昇、スパンダー・バレエはブームの旗手となったのです。


Spandau Ballet - To Cut A Long Story Short


デビュー・シングル。全英5位。ビルボードのダンス・クラブチャートで33位。
典型的なシンセポップですが、独特のフレーズとハドリーの厚みのあるヴォーカルは異彩を放っています。
廃城のような建物の中で、英国貴族趣味をデフォルメしたような古典的な衣装を纏って演奏するメンバーの姿は、今見るとすごく変なんですが、これがニュー・ロマンティックの典型的なファッションなのですね。
あとギターとベースの位置が異常に高いのも気になります。パンクの頃はセックス・ピストルズザ・クラッシュあたりが「これじゃ演奏に支障が出るんじゃないか」と思うくらい低い位置に楽器を構えていて、それがしばらくの間流行となったものですが、ここで高くしてきたというのはある意味原点回帰なんですかね。まあ原点回帰し過ぎたのか、バタヤン(田端義夫)みたいになってますけど。


Spandau Ballet - The Freeze


81年リリースのシングル。全英17位。ビルボードのダンス・クラブチャートで68位。
ギターのカッティングが印象的で、個人的には好きな曲でしたね。


81年にはデビューアルバム『Journey To Glory』もリリースされ、全英5位に輝いています。
これは僕も買ったんですが、日本ではその軽々しさ、紛い物臭さが敬遠されたのか、おおむね低い評価にとどまっていた記憶がありますね。
と言うか、今も調べてみるとスパンダー・バレエって、アメリカで売れた頃には言及されているんですが、この頃の音についてはほぼ黙殺されているんですよね。そんなにダメな音かなあ。まあ享楽的で刹那的でハイプなのは認めますけど。


Spandau Ballet - Musclebound


『Journey To Glory』からのシングル。全英10位。邦題は『燃えるマッスル』。
何となくロシアっぽい感じの、妙に力感のある曲です。個人的には一番のお気に入りですね。
後にスパンダー・バレエアメリカで売れた時、『True』などを気に入っていた友人にこの曲を薦めたことがあるんですが、「変な曲」と一蹴された覚えがあります。まあ仕方ない。


Spandau Ballet - Reformation


『Journey To Glory』収録曲。
ちょっとヨーロッパの舞踏を思わせるような、安っぽいスノビズムがいい感じを出しています。


しかしニュー・ロマンティックのブームは1年も経たないうちに終わってしまいます。もともと時代の仇花的なムーブメントでしたので、飽きられるのも早かったのですね。
デュラン・デュランはいち早く本格的なロックへ舵を切っており、アメリカに進出して泥舟と化したムーブメントからの脱出に成功していますが、そんなにうまくいったのは彼らだけで、他のバンドはことごとく消えてしまいました。ムーブメントの先駆者的な存在だったスティーブ・ストレンジ率いるヴィサージですら、ソウル方面に活路を見出そうとしましたが失敗しています。
そんな中スパンダー・バレエも新しい方向性を模索し、生き残るための方策を打ち出すこととなります。そして彼らが辿り着いたのがファンクでした。


Spandau Ballet - Chant No.1 (I Don't Need This Pressure On)


81年リリースのシングル。全英3位。ビルボードのダンス・クラブチャートで22位。
前作のシンセ中心のダンス・ポップというイメージをかなぐり捨てて、思いっきりファンクに接近しています。
末期のザ・ジャムがファンクになった時と同じくらいの衝撃がありましたが、そのせいかこの曲はヒットし、彼らは何とか生き残ることに成功しています。


Spandau Ballet - Paint Me Down


やはり81年リリースのシングル。全英30位。
これはサウンド云々よりも、PVが衝撃的でした。メンバーがふんどし一丁になり、体にペイントを塗りたくるという内容は、退廃的で良かったですね。


この年2ndアルバム『Diamond』もリリースされています。全英15位。
めっちゃファンキーでダンサブルなサウンドですが、過渡期だったためかセールスはいまいちで、日本での評価も低いままでした。


Spandau Ballet - Instinction


82年に『Diamond』からカットされたシングル。全英10位。
高らかにホーン・セクションが鳴り渡るゴージャスなファンクですが、どうしてもB級らしさが隠しきれないところがあって、そこが味になっている気がします。


この後彼らはまたしても方向性を変更し、今度はソウルやモータウンに接近するようになります。
もともとハドリーのヴォーカルは、ニュー・ロマンティック勢の中では際立ってソウルフルなタイプではあったんで、この路線にもそんなに違和感はありませんでした。
専任のサックス・プレイヤーであるノーマンの存在も、路線変更においてはかなり大きかったと思いますね。
またこの頃彼らは第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗り、本格的にアメリカ進出も行っています。ライバルだったデュラン・デュランが成功しているだけに、これは負けられないとメンバーも思っていたんじゃないでしょうか。


Spandau Ballet - Lifeline


82年のシングル。全英7位。
この曲はまだ『Diamond』の頃のサウンドとの過渡期って感じで、ファンキーな味付けが耳に残ります。
それとサックスがリゾート感を醸し出していて、当時のカフェバーなんかでウケそうな音ですよね。


Spandau Ballet - Communication


83年2月リリースのシングル。全英12位、ビルボードで59位。
これもファンキーなソウルナンバーで、キャッチーな「フーフーフーウフー」というコーラスが印象的ですね。
当時シュウェップスのCMに使われた記憶があるんですが。


この年の3月には、彼らは3rdアルバム『True』をリリースします。
このアルバムからは以前のインチキ臭さは微塵もなくなり、アダルト・コンテンポラリーに寄った堂々たるポップスを披露しています。
そのソフィスティケイテッドされたサウンドは人気を呼び、結果アルバムは全英1位、ビルボードで19位の大ヒットとなっています。日本でも一転して評価が上がりましたし。


Spandau Ballet - True


『True』からのシングル。全英1位。ビルボードでは4位の大ヒットとなり、世界的にブレイクした一曲になりました。
ブライアン・フェリーがモータウンに接近したような、美しいバラードです。「ハーハハッハー」というところとか、暑苦しい感じもしますが耳に残ります。
この曲は80年代を代表するポップ・ソングとなり、後に映画やCMなどでよく使われています。特にドリュー・バリモアの映画では一時期必ずと言っていいほどこの曲が流れ、彼女にとっての「イノキ・ボンバイエ」的な存在になってました。


Spandau Ballet - Gold


これも『True』からのシングル。全英2位、ビルボードで29位。
もはやブルー・アイド・ソウルと呼べるようなサウンドですが、速度もあってこれはこれでカッコいいです。この時期の彼らの曲ではこれが一番好きですね。
この曲も本国で愛され続け、一昨年のロンドン五輪では、イギリスの選手が金メダルを取るたびにニュース番組で使われたそうです。


その後彼らはアダルトな路線で活動を続けますが、アメリカでは84年に『Only When You Leave』がビルボードで34位の中ヒットとなったくらいで、以降結果は出せませんでした。
それでも本国では86年くらいまでは人気がありましたが、方向性が迷走し始めたためだんだんとセールスも落ち、ゲイリーが俳優活動にシフトしたせいもあり、90年には解散してしまいます。
解散後ゲイリーは本格的に俳優の道へ進み、大ヒットした映画『ボディガード』でホイットニー・ヒューストンのマネージャー役を務めるなど、かなりの成功を収めています。
弟のマーティンも俳優に転向しましたが、ゲイリーほどうまくはいかず、おまけに脳腫瘍にかかって95年に開頭手術を受け、頭蓋骨の一部を除去して代わりに金属プレートを埋め込むなど、いろいろと苦難が多かったようです。
またハドリーはソロ歌手になりアルバムをリリースするほか、バラエティ番組でAC/DCの歌まねをしたり、その193cmの大きな体を生かしてオアシスのリアム・ギャラガーと乱闘騒ぎを起こしたりと、呑気に活躍していました。
キーブルはハドリーのバックバンドの一員となり、ノーマンはその器用なところを生かして、イタリアを拠点にセッション・プレイヤーとして活躍していたそうです。
そんな中95年には、ハドリーとキーブルとノーマンが、ゲイリーに対して印税訴訟を起こしています。
スパンダー・バレエの楽曲のほとんどはゲイリーが書いていたのですが、なんでも彼はまだバンドが売れる前から、他のメンバーに対して「印税は全員に分配する」と口約束をしていたのにもかかわらず、結局は印税は全て自分が取っていたのだとか。
この泥沼の訴訟は結局ゲイリーが勝利したのですが、以来ケンプ兄弟と他のメンバーの仲は修復不能状態になってしまいました。


そんなこんなでいろいろあったため再結成は不可能と思われていたスパンダー・バレエですが、09年には突如としてまさかの再結成を果たし、ライブ活動を再開します。
なんでも再結成にあたって200万ポンド(約4億5千万円)を提示されたそうで、そりゃ多少の確執はあっても再結成しますわな。ちなみに一番対立の激しかったゲイリーとハドリーの間に立ったのはキーブルだったとか。
バンドは同年アルバム『Once More』をリリースするなど、年内いっぱいしっかり活動し(ティアーズ・フォー・フィアーズとのジョイントライブなんかもやったらしい)、その後はまたそれぞれの活動に戻っていきました。
ハドリーは10年にソロ歌手として来日(スパンダー・バレエとしても86年に来日している)し、「またいずれ一緒にやる可能性もあるけど、自分自身の音楽を大事にしたい気持ちもある」と語っています。


最後になりましたが、彼らとデュラン・デュランとのライバル関係についても書いておきましょう。
両者のライバル関係はマスコミ先行の話題作りの側面もありましたが、実際にお互い相手のことを意識していたことは、のちに両バンドのメンバーが認めています。
特にデュラン・デュランは自分たちが地方都市バーミンガムの出身だったため、ロンドン出身のスパンダー・バレエを強くライバル視していました。先んじてデビューしたスパンダー・バレエのデビュー・シングル『To Cut A Long Story Short』をデュラン・デュラン側が入手して、「よし、これなら俺たちの勝ちだ」と胸を撫で下ろしたという話は、アンディ・テイラーの自伝に詳しいです。
84年にクイズ番組『Pop Quiz』に両者が回答者として出演した時は、デュラン・デュランがコネを使って事前に解答を入手して勝ったという、お前ら子供かというエピソードも残っているくらいです。
またスパンダー・バレエのほうも、アメリカ進出においてデュラン・デュランに先に行かれたため、それを苦々しく思っていたとマーティンが自伝の中で書いています。
そのため当時の関係はピリピリしていて、両者が出演するチャリティ・コンサートなどでも楽屋の距離を離すなど、周囲も相当気を使うことになったとか。
しかし時が経つにつれてわだかまりは解け、逆にニュー・ロマンティックの頃から一緒に戦ってきたという戦友のような意識が生まれたのか、今ではメンバーの仲は良好で、会った時はお互いにジョークを飛ばす間柄なのだそうです。
特にハドリーはソロアルバム『Tony Hadley』の中でデュラン・デュランの『Save a Prayer』をカバーしたり、ライブで『Rio』を歌ったりしています。両方とも名曲なので、ハドリーのカバーがどんな風なのか聴いてみたい気もしますね。