デュラン・デュラン

こんばんは。さいたま市は今雨が降っていてクソ寒いんですけど、皆様のところはいかがでしょうか。
これからますます寒くなっていくでしょうけど、風邪など引くことのないよう、御自愛下さいませ。
つーかこのブログって一応ロック関係を主に取り扱うものなのに、何でいつも天候の話から始まるんでしょうね。まあいいんですけど。


さて前回スパンダー・バレエについて書いたんで、今回は同じくニュー・ロマンティックからブレイクしたデュラン・デュランを取り上げてみようかと思います。
前に「書こうと思えばデュラン・デュランでもバナナラマでもスパイス・ガールズでもブリトニー・スピアーズでも更新できます」と啖呵を切ったことはありますが、まさかこんなに早く書く機会が訪れるとは。
このバンドは世界的に大ヒットを飛ばして今も活動中の超大物ですし、日本でもかなりの人気がありましたから、変なことを書いちゃうと突っ込まれそうでちょっと緊張しますけどね。まあ頑張ります。


デュラン・デュランは78年に英国バーミンガムで、ニック・ローズ(キーボード)とジョン・テイラー(ギター)を中心に結成されました。他のメンバーはスティーブン・ダフィ(ヴォーカル)とサイモン・コリー(ベース)で、ドラマーはおらずリズム・マシーンを使っていたらしいですね。
ローズは楽器の演奏歴がほとんどなかったんですが、タイプライターを叩くのが上手かったのでその要領ですぐに上達するだろうという、すごい理由でキーボードを選んだそうです。実際ライブの映像を観てみると弾き方が素人っぽくて、かなりの割合を自動演奏に頼ってましたっけ。
ちなみに印象的なバンド名は、ジェーン・フォンダが主演したB級SF映画『バーバレラ』に出てくる悪役、デュラン・デュラン博士(ミロ・オーシャが演じていた)から取ったそうです。こういうキッチュなセンスは個人的には好感持てるんですが。
彼らはバーミンガムのナイトクラブで演奏していましたが、わずか半年でダフィとコリーは脱退してしまいます。ダフィはのちにスティーブン・"ティン・ティン"・ダフィと名乗ってソロシンガーとなり、『Kiss Me』などのヒットを飛ばしたのち、ライラック・タイムを結成して現在も活動しています。ローズとの交友も続いており、03年には二人でザ・デビルというユニットを組んでアルバムをリリースしていますが、そのへんのことも機会があったら取り上げてみましょうかね。
二人の脱退後にバンドは後任のヴォーカリストとしてアンディ・ヴィケットを加入させ、その年の暮れには専任ドラマーとしてロジャー・テイラー(クイーンのドラマーとは同姓同名)を迎え入れます。ロジャーはセント・オルガンという地元のバンドで活動しており、78年には『メロディ・メイカー』誌の主催するアマチュア・バンドのコンテストで、その地区の決勝戦に残った経歴を持っていました。
この体制でバンドはデモテープの作成に取り掛かるのですが、79年に入るとヴィケットも早々に脱退してしまいます。
しかしめげない彼らは、ジョンをベーシストに転向させ、脱退メンバーの後任としてアラン・カーティス(ギター)、そしてセント・オルガンでロジャーと同僚だったジェフ・トーマス(ヴォーカル)を加入させ、5人編成となりました。
これでようやくデモテープは完成させるものの、まだまだメンバーチェンジは続き、やはり数ヵ月後にはトーマスもカーティスも抜けてしまいます。
バンドは今度こそメンバーを固定しようと思ったのか、メロディ・メイカー誌にメンバー募集広告を出し、その結果様々なバンドで豊富な演奏経験のあるアンディ・テイラー(ギター)が加入しました。
そしてヴォーカリストとして、かつて子役としてテレビCMなどで活躍した経験があり、当時バーミンガム大学に通っていたサイモン・ル・ボンが迎え入れられます。なんでもル・ボンの当時の恋人だったフィオナ・ケンプが、当時デュラン・デュランが演奏していたナイトクラブのウェイトレスをしていて、その縁で紹介されたんだとか。
またル・ボンの採用された理由にはルックスが良く歌が上手いという以外に、詩や曲を書き溜めたノートを持っており、それがメンバーの関心を惹いたというのもあったようです。姿勢が大事ということでしょうか。
とにかくこれでようやくメンバーの固定されたバンドは、2本のデモテープを制作し、バーミンガムとロンドンのクラブを回り、精力的に活動を開始します。
そして80年の終わり頃にヘイゼル・オコーナーのオープニング・アクトを務めたところ、ロンドンのマーキーでの演奏が多くのレコード会社関係者の興味を引き、結局フォノグラムとの争奪戦の末、EMIレコードとの契約を得ることとなるのです。
彼らは翌81年の2月に、シングル『Planet Earth』でデビュー、するとおりからのニュー・ロマンティックのブームにも乗ってこの曲がヒット、一気にティーンのアイドルとして注目されるようになりました。


Duran Duran - Planet Earth


デビュー曲。全英12位。ビルボードのダンス・クラブチャート26位。
終始鳴っているシーケンサーの音と、耳に飛び込んでくるベースと要所をしっかり押さえているギターが印象的な、ダンサブルなポップです。
「バッババッババッバッババ」ってところも、キャッチーで好きですね。


このバンドはデビュー後すぐに日本でも、女の子向けの音楽雑誌などでアイドルとして大々的にフィーチャーされました。
彼らはメンバー全員がルックスが良い(アンディは若干地味な感じでしたけど)という稀有のバンドでしたから、その戦略はある意味当然なんですが、おかげで当時周囲で洋楽を聴いていた男性からの評判は最悪でしたね。
それもろくに曲も聴かずに最初からダメと決め付けていたので、始末に負えなかった記憶があります。まあ当時はみんな高校生でしたし、イケメン(当時こんな言葉はありませんでしたけど)への嫉妬もあったでしょうし、仕方ないんですけど。
個人的には女の子に人気のあるバンドをバカにしていると、結果良いバンドを聞き逃すというのはクイーンやチープ・トリックやジャパンなどで学んでいたので、とりあえずちゃんと聴いてから評価しようとは思っていました。
で、何曲か聴いてみて「ヴォーカルはぬめっとしていて苦手なタイプだけど、曲はポップだしベースは上手いし、ニュー・ロマンティックの胡散臭さも薄いし、これはただのアイドルじゃないのでは」と思ったんですけど、周りがそんな感じだったのでとてもじゃないけどそれは口にできなかったです。そのくらい嫌われてました。
だからとりあえず周囲に話を合わせつつ、女子と話す時はこっそりデュラン・デュランに理解を示すという、なかなか狡猾な立ち回りをしておりました。どこに対しても良い顔をしていたわけで、我ながらずるかったなと今でも思うのですが、これである程度社会に出た時の立ち回り方を覚えたという側面もあるので、難しいところではありますね。


Duran Duran - Careless Memories


2枚目のシングル。全英37位。ビルボードのダンス・クラブチャート72位。
それほど重要な曲ではないのでしょうけど、若さと翳りが同居していて、個人的には好きですね。


この年バンドはデビューアルバム『Duran Duran』をリリースし、全英3位とヒットさせています。
同じ頃ライバルだったスパンダー・バレエも、アルバム『Journey To Glory』を全英5位とヒットさせており、お互いにしのぎを削っていました。音楽雑誌は彼らの関係を煽りまくって盛り上がっていましたっけ。
スパンダー・バレエとのライバル関係については前回詳しく書きましたが、ルックスの差もあったのか日本ではライバル視すること自体がおかしく思えるくらい、人気には違いがありましたね。
個人的には当時のスパンダー・バレエの胡散臭さのほうが好きだったのですが、この後残るのはデュラン・デュランだろうな、というのは薄々感じてました。まあその後スパンダー・バレエもアダルトな方向に路線変更して、後世に残るバンドになりましたけど。


Duran Duran - Girls on Film


Duran Duran』からのシングルカット。全英5位、ビルボードのダンス・クラブチャート26位。邦題は『グラビアの美少女』。
シャッター音から始まるダンスナンバーで、艶っぽいリズムセクションと軽快なギターのカッティングの絡みと、どことなく陰のある感じが好きでしたね。


D


これはナイトヴァージョン。エロエロな女の人がたくさん出てきて、若い頃に観て衝撃を受けましたっけ。
同じようなコンセプトのPVに、モトリー・クルーの『Girls,Girls,Girls』があるんですが、あちらがアメリカらしくあけっ広げな感じなのに対してこちらは淫靡な感じが強く、お国柄を感じさせます。
ちなみにこのPVの監督は、元10ccのゴドレイ&クレームです。この年彼らはヴィサージの『Fade To Grey』『Mind Of Toy』も撮っており、これらの作品でPVのディレクターとしての評価を定着させました。


82年の4月には、早くも彼らは来日しています。東京、大阪、名古屋で計5公演を行い、なかなか好評だったようです。
当時ロッキング・オン誌でル・ボンのインタビューが載ったのは読みましたね。意外にも知的でかつ誠実な内容で、好印象を持ちましたっけ。
なんでもル・ボンは他の雑誌のインタビューでは、「今履いている靴下の色は」とかくだらない質問の連発でさすがに嫌気がさしていたらしく、ちゃんと音楽の質問をしてくるロッキング・オンのインタビューに対しては非常に乗り気で、「こうなったらロッキング・オン一冊分くらいしゃべってやろうじゃないか」なんて発言していました。
また「日本人の言う明るい暗いのニュアンスがよく分からない」といった意味の発言をして、そこに当時ロッキング・オンで通訳をしていたスティーブ・ハリス(確かアメリカ人だった記憶が。アイアン・メイデンのベーシストとは同姓同名)が「日本人は世界一暗い民族でね。すぐに暗い部分を見つけてはそこに親しんじゃうんだよ」と余計なことを吹き込んで、インタビュアー(増井修だったと思うんだけど、記憶違いかもしれない)に「死ねスティーブ」と書かれるなど、肩が凝らずに読める内容でした。


Duran Duran - Hungry Like the Wolf


来日後すぐの5月にリリースされたシングル。全英5位。ビルボード3位(83年)と大ヒットしています。
この曲では早くもニュー・ロマンテイックから脱していて、かなり抜けが良くクリアな曲調になっています。一聴して新しいステージに昇ったんだなって思いましたっけ。
ポップですがギターリフもカッコよく、彼らの代表曲の一つだと思います。


同じ頃に彼らは2ndアルバム『Rio』もリリースしています。これも全英2位、ビルボード6位(83年)と大ヒットしましたね。
このアルバムは捨て曲がないうえ、アメリカに接近しつつもイギリスらしさも残っていて、バランスが取れている感じなので好きですね。個人的には彼らのアルバムの中で一番良いと思います。
またあのダイアナ妃もこのアルバムが大好きで、外遊時にはこのアルバムの入ったカセットテープをいつも持ち歩いていたそうです。


Duran Duran - Save a Prayer


Rio』からのシングル。全英2位。
ムーディーでミステリアスな面をフィーチャーした、味わいのあるバラードですね。
個人的には彼らの曲の中で一番好きです。今聴いても名曲だと思いますし。


Duran Duran - Rio


これも『Rio』からのシングル。全英9位。ビルボード14位(83年)とヒットしています。
とにかくこの曲はジョンのベースがカッコいいですね。音使いが細やかで若さに似合わぬ艶っぽさも出ています。
また目立ちませんけどアンディのギターが奏でる効果的な和音の変化や、ロジャーのシャープなドラミングも印象的です。初期デュラン・デュランの演奏面は、三人のテイラーが支えていたといっても過言ではありません。
もちろん曲もクールな疾走感を持っていますし、センスの良さも感じられて、これも名曲なんじゃないでしょうか。


Duran Duran - Is There Something I Should Know?


83年3月にリリースされたシングル。全英1位、ビルボード4位。邦題は『プリーズ・テル・ミー・ナウ』。
この曲は個人的には印象が薄いんですけど、一番充実した時期に作られているせいもあってか、なかなか良いと思います。当時日本でもサントリーウイスキーのCMに使われてましたっけ。
なおこの頃アメリカでデビュー・アルバム『Duran Duran』がこの曲を再録した形で再発されて、ビルボードで7位を記録するヒットとなっています。こんなことからも当時の彼らのブレイクぶりが分かりますね。


これ以降彼らはさらにヒットを飛ばしまくり、誰でも知っているバンドになるのですが、それについてはまた次回に。