デッド・ケネディーズ

そう言えば最近パンクを取り上げてないなと思ったので、今回はバリバリのパンクであるデッド・ケネディーズです。
彼らは80年代の米国ハードコア・パンクシーンで活躍したバンドで、その悪意のあるバンド名などで局地的な人気を誇っていました。
僕が彼らのことを知ったのは高校生の頃でしたが、やっぱり名前のインパクトがすごかったですね。何しろ「死んだケネディ一家」ですから。日本じゃ考えられないネーミングです。
実際彼らはこの名前で注目を集めましたが、現在とは比べ物にならないほどパンクを嫌悪する風潮もあり、風当たりはかなり強かったようです。政治的な歌詞やパフォーマンスも相まって、公的な機関から色々と弾圧された他、地方では別な名前で演奏することを強いられたりもしたと聞いています。当然メジャー・レーベルとの契約などありえるわけもなく、インディーズからのデビューでした(そのときのレーベルが英国のあのチェリー・レッドだったというのは、冗談のような本当の話)。


デッド・ケネディーズの特徴は、何と言ってもヴォーカルのジェロ・ビアフラの個性でしょう。
声を震わせるような独特のスタイルで、政治色の強い歌詞を歌う彼は、そのアクの強さもあってバンドの顔として活躍しました。
また英国のハードコア・バンクのようにストレートに政治に不満をぶちまけるのではなく、風刺やアイロニーブラック・ユーモアを散りばめて、聴きようによってはふざけているようにも取れる歌詞を書くことも、彼独特のポリシーだったようです。
第一そのステージネームからして、アメリカのゼリー菓子の登録商標である「Jell-O」と、1966年にナイジェリアとの独立戦争を戦って悲惨な運命をたどった「ビアフラ共和国」を組み合わせたもので、大量生産される食品と大量飢餓を組み合わせた皮肉なものとなっていますから。
時にはそれが行き過ぎて、『Kill The Poor』(貧乏人を殺せ)とか『Let's Lynch The Landlord』(地主をリンチしてやろうぜ)とか、強烈な内容の歌を歌って顰蹙を買ったりもしていましたが、そのへんはご愛嬌でしょう。
彼はその他にも突如サンフランシスコ市長選に出馬して4位という好成績を収めたり、アメリカ緑の党のメンバーとして活動したりと、活発な政治活動も行っています。


Dead Kennedys - California Uber Alles


80年にリリースされた1stアルバム『Fresh Fruit for Rotting Vegetables』(邦題は『暗殺』)に収録された彼らの代表曲。
これは音源が7インチバージョンなので、多少スピードが遅いです。アルバムではもう少しスピードアップして録音されています。
彼らの中ではかなりメロディーがはっきりしている部類に入る曲で、非常にわかりやすいです。爽快なパンクサウンドと、「カリフォルニアは俺の物」と歌う冷笑的な響きのヴォーカルのマッチングが良いです。


Dead Kennedys - Bleed For Me


80年代前半のロサンゼルスでのライブ。僕が初めて見た彼らの映像でもあります。
聴いてみてとりあえず思うのは、演奏が結構上手いことでしょうか。ハードコア・パンクの演奏ってただ単にめちゃくちゃなことも多いんで、これには驚きました。
ビアフラのヴォーカルもいかにも悪意がこもっているような挑発的な感じで、他のパンクにはない独特の味を出しています。


Dead Kennedys - Nazi Punks Fuck Off


81年にリリースされたEP『In God We Trust』に収録された、これも彼らの代表曲。
当時の体育会系ハードコア・パンクスを、まるでナチや軍隊のようだと揶揄した曲で、グラインドコアのような圧倒的な爆発力に溢れています。
この頃はパンクファッションにハーケンクロイツを取り入れる若者が多く、一般人にパンクとネオナチが混同されることすらあったのですが、この曲がきっかけで多くのパンクスたちがナチスのシンボルはパンクではないと思うようになり、ハーケンクロイツをファッションに取り入れるのをやめたというエピソードもあります(日本では未だにやってる人がいますけど)。


しかし彼らは85年に重大な事件に巻き込まれます。
この年リリースされた3rdアルバム『Frankenchrist』には、男女の性器が結合している絵を大量かつ機械的に並べて描いたポスターがついていたのですが、これが猥褻だとされてしまったのです。
ビアフラ曰く「セックスの商品化と消費者社会による非人間化を表しており、流れ作業的なセックスの絵をメタファーとしている」というアーティスティックな表現であるにも関わらず、ビアフラの自宅や当時所属していたオルタナティブ・テンタクルズ・レーベルなどに家宅捜索が入り、バンドは告訴されてしまいます。
彼らは表現の自由を守るために裁判で戦い、結局証拠不十分で無罪となりますが、その間にバンド内の人間関係が悪化し、また裁判での消耗もあり、結局デッド・ケネディーズは86年にラストアルバムをリリースして解散してしまいました。


その後も揉め事は続きます。ロイヤリティーの問題で、他の3人のメンバーがビアフラとオルタナティブ・テンタクルズを訴え、泥沼の裁判闘争の末ビアフラ側が敗訴しました。
その結果デッド・ケネディーズのバックカタログの権利は他の3人のものとなり、またビアフラが作詞作曲していたことになっていた曲のクレジットも、デッド・ケネディーズ名義に書き換えられることとなりました。
当然ビアフラと他のメンバーの確執は修復不能のものとなり、後に3人がデッド・ケネディーズの再結成を持ちかけた際も、ビアフラはそれをにべもなくはねつけています。
3人は結局新しいヴォーカリストを入れてバンドを再結成させ、当時と区別するためDK・ケネディーズと名乗ったのですが、多くのプロモーターは「デッド・ケネディーズ」の名でプロモーションを打ったため、名を騙ったのかと顰蹙を買うこととなりました。このバンドは日本にもデッド・ケネディーズの名で2度来日しています。
一方ビアフラは政治活動に勤しむほか、ソロとしてヘンリー・ロリンズと同様に詩の朗読活動などを行ったり、ミニストリーのアル・ジュールゲンセンとのユニットであるラードで活動したり、オフスプリングやセパルトゥラなどとコラボしたりと、多彩な活動を繰り広げています。