P-MODEL

前回プラスチックスを取り上げたんだから、今回はこれを持ってこなくちゃいかんだろ、と思いまして「テクノ御三家」からP-MODELの登場です。
このバンドは中学生時代にはまって、結局解散するまで何だかんだ言ってアルバムは全部聴いてましたから、かなり好きなバンドだったのですね。
最初のニューウェーブっぽい音からポストパンクに影響を受けた実験的な音、コンピューターを駆使した電子音楽サウンドは激しく変遷していったのですが、リーダーである平沢進(ヴォーカル、ギター)の持つ確固たる世界は不変で、そこに惹かれていたのかもしれません。
最近では大人気アニメ『けいおん!』の主要登場人物の苗字が、全部P-MODELのメンバーから取られていることで話題となり、それをきっかけに『けいおん!』観ちゃいましたから、いろいろと縁の深いバンドでもあります。


P-MODELは73年に結成された、マンドレイクというプログレ・バンドを母体にしています。
このバンドはもともとブラック・サバスのコピーから始めたハードロックバンドだったらしいのですが(そう言えば平沢はインタビューで、影響を受けたギタリストはという質問にトニー・アイオミと答えていて、マンドレイクの頃をよく知らない少年だった僕を驚かせたこともあった。あと元フリートウッド・マックピーター・グリーンの名前も出してたっけ)、当時在籍していたヴォーカリストがバイオリンを持ち込んできたことで、プログレに移行したんだとか。
しかし時代はまだ第一期キング・クリムゾンが現役で活動していた頃で、一部の好事家たち以外にはまったく受け入れられず、ある大学の学園祭で演奏した際には、ステージにゴミ箱が投げ込まれて演奏中断に追い込まれるなど、不遇の時代を過ごしていました。平沢も他のメンバーたちとともに、ペプシコーラの倉庫や青果市場で荷物運びのアルバイトをしたり、ヤマハシンセサイザー教室で講師をしたりして糊口を凌いでいたそうです。
そんな売れないアマチュアバンドだったマンドレイクですが、探したら音源があったので載せておきます。動画サイトってすごい。


マンドレイク - 飾り窓の出来事


97年にリリースされたコンピレーション『Unreleased Materials Vol.1』からの音源です。78年には海賊版でシングルも出てるんだそうで。
キング・クリムゾン、イエスEL&Pからの影響が顕著なサウンドですが、抜群の構成力とメロトロンの使い方、エフェクトをかけたヴォーカルにに光るものを感じます。
これが70年代のアマチュアの作品というのは正直驚きですね。クオリティ高過ぎ。


その後マンドレイクはレコード化の話も持ち上がったもののポシャり、平沢はシンセの可能性にのめり込んでいくようになりました。
ほんの偶然ですが、僕はその頃の平沢の音を聴いたことがあります。当時友人に誘われてバンドでシンセサイザーやキーボードを担当することになり、勉強のために買った教則本に、平沢の制作した音源のソノシートが付いていたのですね。
巻末のライター紹介に、若き頃の平沢の写真とプロフィールが載っていたのも覚えています。当時はまだマンドレイクに在籍ってなっていましたっけ。
驚いたことにこの音源も動画サイトにありました。いやー、すごい時代だなあとひたすら感心。


バッハ・リヴォリューション&平沢進 - ダミーの策略


これがそのソノシートに入っていた曲です。再生環境がないので数十年ぶりに聴いたんですが、最初のヴォコーダーの部分は覚えてましたね。
この曲は多分シンセサイザーや電子楽器の機能を紹介するために作ったもので、平沢の音楽性云々を語れるものではないと思うんですが、ミニモーグヤマハのCS-30、ソリーナ・ストリングアンサンブルなんかを駆使していて、まだ物珍しい楽器だったシンセの入門編としては良かったのではないでしょうか。
ちなみにバッハ・リヴォリューションというのはシンセサイザー音楽を作っていた二人組で、当時まだ結成したてのYMOや大御所富田勲と、ジョイント・コンサートを開催していたこともありました。
平沢は当時彼らのサポートをしていたらしく、その縁での参加だったのかもしれません。なおバッハ・リヴォリューションのメンバーだった小久保隆は、現在音響デザイナーとして活動し、リラクゼーション・ミュージックを発表しているようです。


もう一つ当時の音源がありました。


平沢進 - いりよう蜂の誘惑


この曲は週刊プレイボーイ主催のシンセサイザー多重録音コンテストで、富田勲から絶賛されて見事入賞したという楽曲ですね。
当時入賞作品を収録したアルバムがメジャーリリースもされたそうですが、聴いたのはこれが初めてです。動画サイトに感謝。
SEや不気味なシンセが、聴いている側の不安感を掻き立てていく佳曲で、のちの平沢の音楽性の源流になっているのではないかと思います。


この頃の平沢はプログレというジャンル自体に限界を感じており、また当時英国で勃興していたニューウェーブの洗礼も受け、新しいバンドへの移行を考えるようになっていました。
そしてマンドレイクのメンバーだった田中靖美(キーボード)、田井中貞利(ドラムス)を誘い、マンドレイクのファン(末期にはローディーとして出入りしていたらしい)で阿鼻叫喚なるプログレバンドのキーボードだった秋山勝彦(ベース)を加えて、79年の元旦にP-MODELを結成することになるのです。
バンドの活動は順風満帆という言葉がここまで相応しいバンドはあるだろうか、と思うくらい順調で、3月に下北沢ロフトでライブデビューしたかと思ったら、7月にはもうワーナー・パイオニアからメジャーデビューしています。
当時テクノポップが大流行の兆しを見せていたので、青田刈りされたというのもあるんでしょうけど、初期の楽曲の大半はマンドレイク時代から演奏されていて、そこが早期デビューを可能にしたという面もあったようです。
あとこの年に彼らは、あのヴァン・ヘイレンの来日ツアーの前座を務めています。普通に考えるとジャンルが全然違うだろうと思うんですが、実際はかなり好評だったらしくて、Wikipediaにもこれで人気に火が点いたとはっきり書いてあるのが面白いところです。


P-MODEL - 美術館で会った人だろ


デビューシングル。これを初めて聴いた時は衝撃でしたねえ。
勢いで押し切るテクノパンク・チューンといった趣ですが、ものすごくノリがよくてスピード感もあり、今聴いてもカッコいいです。
ピコピコいってるシンセは普通なら時代遅れっぽく聞こえそうなものですが、この曲の場合は逆にクールな攻撃性を出す役割を果たしているようにも思えますし。
平沢もこの曲の魅力のツボが分かっているようで、後年機材が発達して音楽性も変わる中、この曲だけはほぼ初期のアレンジのまま演奏してましたっけ。


P-MODEL - KAMEARI POP


79年のデビューアルバム『IN A MODEL ROOM』からのシングル。
「PTAのおじちゃんに 僕のママは寝取られた」というシングルにはどうなのって歌詞と、静かなる狂気を感じるところが好きです。
ちなみに『IN A MODEL ROOM』は、前回取り上げたプラスチックス佐久間正英がプロデュースしています。のちに名プロデューサーとして名を馳せる彼の初仕事がこれだったということで、ちょっと感慨深いものがありますね。


順調な滑り出しを見せた彼らは、翌80年4月に2ndアルバム『LANDSALE』をリリースします。
このアルバムは基本的に前作の路線を踏襲していますが、歌詞はかなりひねられており、音楽的な引き出しも増えたように感じます。
なおライナーだったか帯だったかに、「可能な限り大きな音でお聴きください」と書いてあって、まだ素直だった僕はヘッドフォンで大音響で聴いていた記憶がありますね。その点でも印象深いです。


P-MODEL - タッチ ミー


『LANDSALE』収録曲。
秋山が作詞作曲して歌っているナンバーで、そのせいかP-MODEL独特の妙なアクがなく聴きやすいですね。


P-MODEL - オハヨウ


これも『LANDSALE』収録曲。
初期ウルトラヴォックスの代表曲『My Sex』のメロディラインをそのまま流用したオマージュで、淡々としたストイックな曲なんですが、初期のブライアン・イーノに通じるようなところもあってお薦めです。



しかし加熱するテクノポップブームに消費されてしまう事を恐れて、平沢と田中は路線変更を打ち出し、ポストパンクのようなダークでディープな方向へ傾いて行きました。
そのあおりを食って、ロック寄りの音楽性やステージングにこだわる秋山は、11月に脱退することになります。当時「受験生のため」と報じられた記憶がありますが、のちに秋山は「調子ぶっこいて、いい気になりすぎてクビになった」と語っていましたね。
バンドは後任のベーシストを迎えることなく、81年3月には3rdアルバム『POTPOURRI』をリリースします(レコーディングではベースは平沢が弾いた)。
このアルバムはギターの歪みやリズム隊の手数の多さが目立ち、テープコラージュやエコーを多用した混沌としたものになっており、個人的には面白く思った(この当時はもうノイズ系とかの良さも分かってきたので)んですが、テクノポップを期待していた従来のファンからの評判は散々だったようです。
過渡期だから仕方ないとはいえ、地方公演では客が数十人レベルしか集まらず、存続を危ぶまれたこともあったとか聞いた記憶があります。


P-MODEL - いまわし電話


『POTPOURRI』からのシングルB面。
正気と狂気の間を行き来しているようでいて、半ば悪意の籠ったサウンドで、これがP-MODELかと当時驚いた記憶があります。
『いまわし電話』での平沢のヴォーカルは、ちょっとザ・スターリン遠藤ミチロウに似ている気もしますが、気のせいかもしれません。


『POTPOURRI』発表後すぐに、平沢が講師を務めていたシンセサイザー教室の生徒だった菊池達也がベーシストとして加わりました。当時彼は17歳の高校生で、そこに驚いたのは覚えてますね。
これでバンドとしての体裁を整えた彼らは、レコード会社を徳間ジャパンに変え、翌82年3月に4thアルバム『Perspective』をリリースします。
このアルバムは前3作の面影が全く見られない突然変異的な内容で、とにかく重いんですけど妙に醒めたところもある、不思議な感触に覆われています。もう「ついて来れるやつだけついてこい」と開き直ったんでしょうか。
またこの頃から平沢の歌詞は意味や語感を作為的に崩した、抽象的で独特なものとなっており、これは現在の彼のソロ活動にまで受け継がれています。


P-MODEL - HEAVEN


『Perspective』のオープニング曲。
スタジオのあるビルの階段の踊り場で録ったという、残響音の強烈なドラムの音と、深読みしようと思えばいくらでもできるけど、でもやっぱり意味が分からない歌詞がインパクトありましたね。


P-MODEL - Perspective


これも『Perspective』収録曲。
空間に孤立したようなそっけない音像と、切羽詰ったように叫ぶ平沢のヴォーカルが印象に残っています。


翌83年3月になると、平沢の音楽的な片腕でありマンドレイク時代からの盟友でもあった田中が、「音楽的なアイディアが出てこなくなった」という理由で脱退してしまいます。
これは平沢に大きなダメージを与えたようで、しばらくは彼の作風にはダークな影が付きまとっていましたね。またこれ以降のP-MODELが平沢のワンマンバンドになるきっかけともなっています。
そんな中バンドは後任に、高校を卒業したばかりの若い三浦俊一を迎え、84年2月に5thアルバム『ANOTHER GAME』をリリースします。このアルバムは「楽な姿勢で座り、目を閉じてください」という、自己催眠のテープのようなガイダンスで幕を開ける、ダークでシュールな作風でしたが、前2作のようなカオスっぷりは影を潜め、整合性の取れた内容になっています。
なおこのアルバムは83年中にリリースするはずだったのですが、アルバム中の『ATOM-SIBERIA』の歌詞にレコ倫からクレームがつき、発売元の徳間ジャパンも歌詞の修正を要求したため、4ヶ月もリリースが遅れて翌年に持ち越しになったという曰くつきのものです。この騒動で徳間ジャパンに不信感を持ったバンドは、リリース後にここを離脱しています。


P-MODEL - ATOM-SIBERIA


その問題になった曲。修正前のバージョンをアップしました。
歌詞修正後のバージョンは「無数の答え、日々の辻褄」となっていましたが、本来はそこは「奇形のエリア、不具の辻褄」という強烈なものでした。
しかし修正させられたのはLPだけで、その後リリースされたCDでは歌詞は元通りになっています。結局元に戻すんなら、最初からつまんないことで騒がないでほしいですね本当に。
曲自体は前2作に比べるとかなり聴きやすいですが、シンセと躍動的なドラムの対比はなかなかです。


P-MODEL - フ・ル・ヘッ・ヘッ・ヘッ


これも『ANOTHER GAME』収録曲。
ただ「フルヘッヘッヘッ」と繰り返しているだけなのですが、それが剥き出しの緊張感を生んで、強引に切羽詰ったような気持ちにさせられる不思議な曲です。
またこの曲は初期のレパートリーの中で、現在でも歌われている数少ない曲ですね。


P-MODELのダーク路線はここで底を打ち、以降は憑き物が落ちたようにクリアな電子音楽に変貌していきます。
それについては次回に取り上げますので、読んで頂ければ幸いです。