パリス/ボブ・ウェルチ

どうもです。台風が二週連続で上陸しましたけど、皆様いかがお過ごしだったでしょうか。
こちらは寝ているうちにいつの間にか過ぎていたって感じで、特に実害はなかったんですけど、気圧の変化のせいか頭が痛くて往生しましたね。おかげさまで今はすっかり良くなりましたけど。
さて前置きはこのへんにして、さっそく行きましょう。またまた今回もポップス系の人で、ボブ・ウェルチですね。比較的地味な人ですけど、渋谷陽一のおかげか日本でもそこそこ知名度は高いように思います。
僕は彼のアルバムを聴き漁るような熱心な聴き手ではないのですが、中学生の頃ラジオの洋楽ベストテンみたいな番組でよくかかっていたので、シングルは結構覚えてますし好きでした。僕は「メロディーが良い」「リフがカッコいい」「ノリがいい」「音がハード」「なんとなく耳に残る」「ハッタリが効いている」「何かすごそうなことをやっているように思える」のどれかに当てはまれば何でも聴いてしまう人だったので(今もその傾向はあまり変わってないです)、こういうのにも全然抵抗はなかったんですよね。


ボブ・ウェルチは本名をロバート・ローレンス・ウェルチといい、1945年8月31日に米国カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれています。
彼の父親であるロバート・L・ウェルチパラマウント映画社に務め、ボブ・ホープの主演で日本でも人気のあった『The Paleface』(邦題は『腰抜け二挺拳銃』)やビング・クロスビー主演の『Top o'the Morning』(邦題は『歌う捕物帖』)など、数々のヒット作品を手がけている敏腕プロデューサーでした。そして母はテンプルトン・フォックスという名前で、シカゴのオーソン・ウェルズ・マーキュリーシアターで歌手・女優として活動していた経歴を持っています。
要するに彼の家庭はショービジネス一家だったわけで、その中で薫陶を受けたウェルチサラブレッドとして早くから音楽に目覚め、ジャズやR&B、ロックにのめり込んでいくようになります。
ハイスクールを卒業したウェルチUCLAに入学しますが、音楽への情熱は止みがたく1年も経たずにドロップアウトします。そして彼はロサンゼルスのソウルバンド、ザ・セブン・ソウルズにギタリストとして加入し、プロのミュージシャンとしてのキャリアを開始しました。このバンドのことは全然知らないのですが、後にルーファス&チャカ・カーンを結成するボビー・ワトソン(ベース)が在籍していたことがあったそうです(ウェルチと同時に在籍したことはないようですが)。
ザ・セブン・ソウルズが69年に解散すると、ウェルチはパリに渡り、ヘッド・ウエストというトリオを結成して、そこで活動していました。このバンドのことも僕は全然知らないんですが、高級ホテルやクラブで演奏を行い、彼も地中海を見渡せる高級マンションに住み、何不自由ない生活を送っていたということですから、経済的には成功していたのでしょう。

そんなウェルチに転機が訪れたのが71年でした。彼は英国のバンド、フリートウッド・マックに加入することになるのです。
70年代中盤にヒットを連発した頃しか知らない人には意外かもしれませんが、フリートウッド・マックは60年代にはバリバリのブルース・バンドでした。サンタナで有名な『Black Magic Woman』も実は彼らのオリジナル曲で、その事実からも分かるようにかなり黒い音を出していたんですよね。
そんなマックですがこの頃には中心人物だったピーター・グリーン(ギター)が、LSDを濫用して半ば廃人となり脱退。その後イニシアチブを取ったジェレミー・スペンサー(ギター)もやはりドラッグ中毒がひどく、おまけに新興宗教にはまって脱退してしまったため、存亡の危機に陥っていました。そこで当時フリートウッド・マックのマネジメントを手伝っていたジュディ・ウォンが、カリフォルニア時代に親交があったウェルチを紹介したのです。
残されたミック・フリートウッド(ドラムス)、ジョン・マクヴィー(ベース)、ダニー・カーワン(ギター)は、これまでのブルース色を薄めて、ロックやフォーク色を強めてアメリカナイズされた音に移行することを考えていました。そのためアメリカ人のウェルチの加入は渡りに船だったのでしょう、メンバーはろくに曲も演奏も聴かずに彼の加入を決めたそうですね。なお同時に元チキン・シャックのメンバーで、ジョンの妻でもあったクリスティン・マクヴィーも、キーボードとして加入しています。
新メンバーになったフリートウッド・マックは、71年に『Future Games』、72年に『Bare Trees』(邦題は『枯れ木』)をリリースしますが、これらは現在でこそ評価されているものの、当時はアメリカに向いたということで本国イギリスではそっぽを向かれ、肝心のビルボードでも前者が91位、後者が70位とふるいませんでした。
しかも当時音楽面で中心だったカーワンが、プレッシャーのため(当時カーワンは21、2歳で若かったため、フロントマンの重責に耐えかねていた面があったようです)ドラッグとアルコールに耽溺し、バンドを解雇になるというおまけまで付きました。なんでもカーワンはライブ前の控え室でウェルチと口論を起こし(そもそもカーワンはウェルチの加入に不満で、普段から仲は悪かったようです)、ギターを破壊した挙句にライブを放棄し、サウンドボードの近くに座り込んで他のメンバーが苦労して演奏している様子をじっと見ており、しかも終了後にフリートウッドのドラムにダメ出しをしたため、さすがに怒ったフリートウッドによって即日クビにされたんだそうで。
その結果フリートウッド・マックの音楽面は、ウェルチがイニシアチブを取ることになりました。彼はバンドのサウンドにこれまでなかったポップでメロディアスな要素を導入し、結果アルバムのセールスは上向きになっていきます。


Fleetwood Mac - Hypnotized


73年のアルバム『Mystery To Me』(邦題は『神秘の扉』)からのシングル。
ウェルチのちょっともやっとした感じのヴォーカルと、ミステリアスな感じの曲調が印象的です。
この曲はそれほどヒットしてませんが、79年にポインター・シスターズがアルバム『Energy』の中でカバーするなど、評価は高いようですね。


ウェルチは74年までフリートウッド・マックに在籍し、5枚のアルバムに参加しています。74年にリリースしたアルバム『Heroes Are Hard to Find』(邦題は『クリスタルの謎』)はビルボードで34位まで上昇するなど、売れ行きも回復基調でした。
しかし『Heroes Are Hard to Find』リリース後、ウェルチは突然バンドを脱退してしまいます。当時の発表は「精神的疲労」ということになっていたそうですが、後に本人は「脱退理由は特にない、辞めてどうするという計画もなかった」と語っていましたから、実際はなんとなく飽きたというところなんでしょうか。あとフロントマンでありながらバンドのボスはフリートウッドだったため、リーダーシップを握れなかったことに対する不満や鬱積もあったのかもしれません。
その後フリートウッド・マックは、スティービー・ニックス(ヴォーカル)、リンジー・バッキンガム(ギター)を加えて再始動し、75年にリリースした『Fleetwood Mac』(邦題は『ファンタスティック・マック』)がビルボードで1位に輝き、500万枚以上を売り上げる大ヒットになったのですが、それはまた別の話です。まあ運がないと言えばないですよね。
一方ウェルチはレコーディング・エンジニアで旧友のジミー・ロビンソンとともにバンドの構想を練り、ジェスロ・タルのオリジナル・メンバーだったグレン・コーニック(ベース)、ナッズというバンドでトッド・ラングレンと、フューズというバンドで後にチープ・トリックを結成するリック・ニールセン、トム・ピーターソンと組んでいた経験のあるトム・ムーニー(ドラムス)を迎え、パリスというトリオバンドを結成するのです。
このバンドはデビュー当時から結構話題になっていたんですが、デビューアルバム『Paris』(邦題は『パリス・デビュー』)はビルボードで最高位103位と売れませんでした。ただ日本では渋谷陽一が思いっきり評価していたせいもあって、妙に知名度が高いバンドではありましたね。


Paris - Black Book


75年リリースのアルバム『Paris』収録曲。
なんかもう完全にレッド・ツェッペリンですね。特に声の裏返り方とかブレイクの取り方とか、ドッタンバッタンしたドラムスとかまんまです。曲のタイトルも『Black Dog』のもじりのようですし。
ツェッペリンを一応聴いたことがあるって程度の人に、「これはツェッペリンの未発表曲のアウトテイクなんだよ」とか言ったら信じそうです。それくらい路線は近いですね。
渋谷陽一がパリスを持ち上げていたのって、ツェッペリンに似てるからなんでしょうかね。あの人も相当ツェッペリン好きですし。


レコーディング直後にドラムスのムーニーは脱退します。どうもこの人はレコーディングだけの契約だったみたいで、もともとパーマメントなメンバーではなかったようですね。
後任にはトッド・ラングレン(またかよ)のバックで叩いていたハント・セールスが迎えられ、バンドは76年に2ndアルバム『Big Towne, 2061』をリリースするのです。


Paris - Pale Horse, Pale Rider


『Big Towne, 2061』収録曲。邦題は『青ざめた馬乗り』。
前作のツェッペリンっぷりはどこに行ってしまったのか、今度はファンキーでポップでややニューウェーブっぽい音になっていてびっくりします。
ウェルチってあまりにも才人過ぎるのか、その時その時の興味で色々なものが作れてしまうんでしょうね。だから才能はあるのに評価はいまいち、みたいな感じになっているのかもしれません。


『Big Towne, 2061』はビルボードで152位と、売れなかった前作をさらに下回る売れ行きに止まりました。内容はとにかく、商業的には完全に失敗でしたね。ウェルチはこのため経済的に大打撃を被り、全財産が8千ドルにまで減ってしまったとか。
それでもウェルチはめげずに次のアルバムの制作に取り掛かるんですが、セールスが顔面麻痺を病んで離脱してしまい、続いてコーニックもバンドの将来を悲観したのか、音楽の世界から足を洗って食品会社のマネージャーになってしまったため、結局パリスは空中分解してしまいました。
しかしウェルチはめげませんでした。彼は一人でパリスの3rdアルバムを制作し続けるのです。彼には新たな構想がありました。ギター中心のロックにポップスの要素を融合させ、ハードなフリートウッドマックのような音を作ろうと考えていたのです。
これに興味を示したのが、パリスのアルバムもリリースしていたキャピトルです。彼らはウェルチの提示した構想を気に入り、彼にソロでのリリースを提案します。ウェルチもこれを了承し、パリスの3rdアルバム用に制作していたアルバムを、77年にそのままソロ名義でリリースしました。
するとそのアルバム『French Kiss』がビルボード12位と大ブレイクし、一躍ウェルチは古巣フリートウッド・マックに肩を並べる位置に達するのです。
当時聴いていたNHK-FMの『サウンドストリート』では、渋谷陽一が「パリスの仇を『French Kiss』で取った」的な発言をしていたという記憶がありますね。微笑ましいと言えば確かにそうですが、あんたどんだけボブ・ウェルチ好きなんだよ。


Bob Welch - Ebony Eyes


『French kiss』からのシングル。ビルボード14位。
とにかくイントロのディストーションが効いたギターのリフが印象に残りますね。
メロディーも分かりやすいですし、アレンジも適度に厚いストリングスでお洒落な(当時としてはですが)感じを出していて、ポップスとしては一級品なんじゃないでしょうか。


Bob Welch - Sentimental Lady


『French kiss』からのシングル。ビルボード8位。邦題は『悲しい女』。
これはもともとウェルチが、フリートウッド・マックの『Bare Trees』に提供した曲のセルフカバーですね。
原曲はブルースっぽさが残る感じでしたが、やや爽やかな感じにリアレンジされていますね。しかしウェルチの独特のもやっとしたヴォーカルのおかげで、単に聴き易い感じにはなっていないのがさすがです。


Bob Welch - Hot Love, Cold World


これも『French kiss』からのシングル。ビルボード31位。
ギターのカッティングとかキーボードの使い方とか、ちょっとスティーブ・ミラー・バンドなんかを思わせる佳曲です。


79年になると彼は、ソロ第2作である『Three Hearts』をリリースしました。
このアルバムは前作の焼き直し感が強く、毎回のようにサウンドを変えてきたウェルチらしくないところもあったのですが、ポップなメロディーは満載で、ビルボード20位のヒットとなっています。
この年彼は来日公演もしています。中野サンプラザ大阪フェスティバルホールでライブを行い、最終日の中野ではやはり来日していたジョン・マクヴィーが飛び入りしたそうですね。


Bob Welch - Precious Love


『Three Hearts』からのシングル。ビルボード19位。
ディスコ調を取り入れてアレンジも派手で華やかになっていますが、パッと明るくなるような印象があって個人的には好きですね。
のちに朝本浩文広末涼子の『ジーンズ』のイントロで、この曲のアレンジを拝借してましたっけ。僕とほぼ同世代の人なので、影響受けてたんでしょうね。
彼は自転車で転倒して頭を打ち、今も意識不明のままだそうですが、無事回復することを祈っています。UAのプロデュースは好きだったんで。
あと稲垣潤一の『思い出のビーチクラブ』という曲も、この曲のパクリだと思います(作曲は林哲司)。


しかし順調だったのはここまでで、その後日本ではウェルチの名前をまったく聞かなくなりました。一時期はボブ・ウェルチというと、同姓同名の野球選手*1ってことになってましたし。
落ち目になったのは確かなようで、79年リリースの『The Other One』はビルボード105位、80年リリースの『Man Overboard』はビルボード162位とまったく売れていません。多分飽きられたんでしょうけど、それにしてもその速度が急過ぎて、こっちがビックリします。
ウェルチは心機一転レコード会社をRCAに移籍し、81年に『Bob Welch』、83年に『Eye Contact』をリリースしますが、前者がビルボードで201位、後者に至ってはチャートインすらせずという惨敗を喫し、彼は表舞台から完全に姿を消してしまいました。
その後彼はヘロインに溺れ、80年代半ばには逮捕されたりリハビリのために入院したりと、荒れた生活を送っていたようです。
妻の助けで何とか立ち直った後は、サウンドトラックの制作に携わったり、フリートウッド・マック、パリス、ソロ時代の自分の楽曲を、一人でレコーディングし直したアルバムをリリースしたりと、地味な音楽活動を行っていました。
また94年には在籍時のロイヤリティーが十分に支払われていないとして、フリートウッド・マック(正確にはフリートウッド、マクヴィー夫妻、バンドの弁護士、所属レコード会社のワーナー・ブラザーズ)を相手に裁判を起こしています。
これは96年に解決したそうです(どう解決したのかは不明)が、訴えられたフリートウッドの怒りは大きく、それまではウェルチフリートウッド・マック・ファミリーとして扱っていましたが、98年にバンドがロックの殿堂に選ばれた際は、グリーン、スペンサー、カーワンといった過去の在籍メンバーも招かれた(ただしカーワンは姿を現しませんでした。一時消息不明になりロンドンのホームレス救護院で存在が確認されたこともあったくらいですし、出られるような状態ではなかったのかもしれません)のに対し、ウェルチはメンバーとして扱われず式典に呼ばれることもありませんでした。
ただ裁判に関わっていないスティービー・ニックスリンジー・バッキンガム(二人はウェルチと同時期にフリートウッド・マックに在籍したことがないので)との仲は、ずっと良好だったそうですが。


そんなこんなで名前を思い出すことすら稀になってしまったウェルチですが、結局第一線に復帰することはなく、2012年6月7日にナッシュビルの自宅で、胸を銃で打ち抜いた姿で発見されるという最期を迎えています。享年66。
彼は長いこと首の持病に苦しんでいたようで、3ヶ月前には脊髄の手術を受けていて、医者に良くなる可能性はないということを告げられていたそうです。これを苦にした内容の遺書も発見されたということなので、自殺であることは間違いないようですね。才能がある人だったのに残念です。
渋谷陽一は彼の死に際して、「フリートウッド・マック時代からソロまで、いつも仮住居な感じがついて回った不思議な人だった」と評していたそうですが、これは分からなくもないですね。活動が長続きせず、今思うと常に寄る辺なさを感じるところはありましたから。


せっかくですからパリスの他のメンバーの消息についても書いておきましょう。
コーニックが一時食品会社のマネージャーとなって音楽業界から足を洗ったというのは先に書きましたが、結局彼はそこを辞めて音楽の世界に舞い戻っています。
パリスに入る前に加入していたワイルド・ターキーというバンドを再結成したんですが、結局これといった成功は収めていないようですね。そして今年の8月にハワイで心臓麻痺のため亡くなっています。享年67。
ムーニーは元ラズベリーズのウォーリー・ブライソンとともにタトゥーというバンドを組んでいた他、スタジオミュージシャンとして活動しているようです。
セールスは兄のトニー・セールス(ベース)とともに、イギー・ポップなどのバックを務めていました。またデヴィッド・ボウイが一時結成していたバンド、ティン・マシーンにも兄とともに参加していましたが、マスコミには「ボウイが無名のメンバーを集めて結成」と書かれていて気の毒でした。まあ実際無名に近いから仕方ないですけど。
なんでもセールスはこの頃ドラッグ中毒に陥っていて、そのためティン・マシーンとしての仕事に何度も支障をきたし、それにボウイが激怒したことがティン・マシーンの活動停止に繋がったそうですね。これは長いことボウイのパートナーを務めたギタリストのカルロス・アロマーが言ってました。
21世紀に入ってからはチャーリー・セクストンのバンドに加入したり、セッション・ミュージシャンとして叩いたりしているようです。

*1:MLBで活躍した投手。ドジャースアスレティックスに在籍し、通算211勝を挙げサイ・ヤング賞も受賞しているが、2014年に57歳で心臓発作で急逝。