ニルヴァーナ

長いこと御無沙汰しています。
実は2月の半ばごろに急性肝炎にかかり、約1ヶ月ほど入院を余儀なくされました。
一応3月の半ばには退院したんですが、体力を根こそぎ奪われた感じになってしまい、ネットこそ見るものの文章を書くような気力は湧いてこず、ずっと放置した形になってしまいました。御心配かけて申し訳ありません。
それでも自宅療養を重ねるうちにようやく気力が回復してきまして、久々の更新となりました。まだ本調子ではないので何だか書いていても変な感じだったのですが、読んで頂ければ何よりです。


さて、病み上がりですからしばらくは一発屋とかゲテモノとか、簡単に書けそうなものを取り上げてお茶を濁そうと考えていたのですが、いざ更新しようとしてあることに気づいてしまいました。
それは今年がニルヴァーナカート・コバーン(正しい発音はコベインだが、日本ではコバーンの表記が一般的なのでそれに準ずる)の没後20年になるということ。そして4月5日が彼の命日だったということです。
ニルヴァーナはとても好きなバンドでしたし、コバーンの精神の崩壊が始まった頃と僕が精神の病を発病した頃が重なっていて、一時は彼の心の闇と自分の心の闇がシンクロしていくような妄想を持っていた時期もあるなど、むやみやたらな思い入れがある人なので、いい機会ですし取り上げてみることにしました。
再開第一弾がいきなり重いですけど、このブログは個人の思い入れで題材を選ぶことが基本なので、どうか御了承頂ければと思います。


90年代に入って、アメリカではグランジというムーブメントが起こりました。
もともとは「汚れた」、「薄汚い」という意味のGrungyが語源で、既存のジャンルに括りきれない新たな音楽性を持ったバンドが次々と台頭したために、メディアがそれらを一括りにするために作られたジャンルの呼び名です。
本来音楽性のみによるカテゴリーではなく、ファッション等も含んだものでしたが、ハードロックやパンク・ロックを独自に昇華させたヘヴィなサウンドと、退廃的な歌詞が特徴的なバンドを多く輩出し、今でもアメリカのバンドは多かれ少なかれその影響を引きずっています。その中心にいたのが今回紹介するニルヴァーナです。


ニルヴァーナは87年に米国ワシントン州アバディーンで、カート・コバーン(ヴォーカル、ギター)を中心にして結成されたバンドです。
コバーンはもともとブラック・サバスエアロスミスレッド・ツェッペリンが好きな少年でしたが、ハイスクール時代に知り合ったメルヴィンズのリーダー、バズ・オズボーンの影響を受けパンクロックに興味を持ち音楽を始めるようになります。
彼は85年、メルヴィンズのメンバーでもあるデイル・クローヴァー(ベース)、学友のグレッグ・ホカンソン(ドラムス)とともにフィーカル・マターなるバンドを結成し、本格的な音楽活動を開始します。その後このバンドにはオズボーンも加入したのですが、結局バンドに対する各々のメンバーの本気度が違ったため、コバーンは失意のうちのこのバンドを解散させてしまいました。
その後コバーンはハイスクールからもドロップアウトし、清掃員などをして暮らしていたのですが、友人の兄であるクリス・ノヴォセリック(ベース)と知り合い、好きな音楽の話題などで意気投合し、バンドを組むことを申し出ます。
ノヴォセリックは最初これを断ったのですが、フィーカル・マターのデモテープを聴かされてコバーンの音楽的才能に気づき、バンドの結成に同意しました。そしてドラムスにアーロン・バークハードを迎え、ニルヴァーナを結成することになるのです。
しかしバークハードは1年足らずで脱退してしまい、その後は旧知のクローヴァー(彼はフィーカル・マターではベーシストだったが、本職はドラマー)にヘルプを頼むのですが、彼はメルヴィンズの活動があるためフルにサポートできないという弱点がありました。そのためバンドは正規のドラマーとしてデイヴ・フォスターを迎えるのですが、彼もすぐに脱退してしまい、活動は滞るようになります。


ニルヴァーナが本格的に活動するようになるのは、ドラムスがチャド・チャニングに固定されてからで、89年にはシアトルにあるインディペンデント・レーベルであるサブ・ポップから、1stアルバム『Bleach』をリリースしました。
このアルバムは制作費わずか606ドル17セント(約7万〜8万円)という低予算で作られたものですが、ダークで荒々しく緊張感溢れる作品となっており、この時点でただ者ではない雰囲気を漂わせていました(後追いで聴いたんで、かなりバイアスかかってるとは思いますが)。
インディーからのリリースだった『Bleach』は、発売当時は一部のマニアからのみ評価が高かったんですが、ニルヴァーナがブレイクするとこれも売れ、ビルボードで89位を記録しています。
なおこのアルバムにはセカンド・ギタリストとしてジェイソン・エヴァーマンなる人物がクレジットされていますが、実際には彼はまったく演奏に参加していません(ツアーには参加しているが後に解雇)。エヴァーマンはこのアルバムの制作費と、プロデューサーだったジャック・エンディーノへのサンドイッチ代を肩代わりしたため、演奏していないのにアルバムには名前が残っているんだそうです。


Nirvana - Negative Creep


Bleach』の中の1曲。
荒削りで未完成ですが、暴発するギター・ノイズと直線的な迫力が圧倒的で、得体の知れない爆発的なエネルギーだけは十分感じられます。


Nirvana - About a Girl


これも『Bleach』の中の1曲。
コバーンが当時の彼女であるトレーシーについて歌った曲ですね。ビートルズっぽいポップなメロディを持っていて、ヘヴィな音の多い彼らの楽曲の中では異彩を放っています。
なおこの曲は94年にアンプラグド・ヴァージョンがシングルカットされ、ビルボードのメインストリーム・ロックチャートで1位を獲得しています。


その後バンドは技術的な問題からチャニングを解雇しましたが、前にも手伝ってもらったクローヴァーやマッドハニーのダン・ピーターズをサポートメンバーとして迎えて急場を凌ぎつつ、旧友であるオズボーンの紹介で出会ったデイヴ・グロールをオーディションの結果加入させ、ここに一般的によく知られたニルヴァーナのメンバーが揃うこととなります。
また『Bleach』の評価が高かったおかげで、90年にバンドはメジャーのゲフィン・レコードとの契約を得ることになり、翌91年には2ndアルバム『Nevermind』をリリースし、メジャーデビューを果たしました。このリリースがバンドの運命を激変させることになります。
Nevermind』の初回出荷枚数は本国アメリカでも2万5千枚に過ぎず、当然レコード会社からのプッシュもなければ大物バンドのサポートとかのおいしい話もなかったにもかかわらず、何故か毎週じわりじわりとチャートを上昇し続け、ついにはビルボードで1位に輝き(全英では7位)、全世界で4,000万枚を売り上げ、若い世代のマスターピースにまでなったのです。
今となっては普通に語られていることですが、この剥き出しの感情が強烈な異臭を放つような音楽が、チャートの頂点に上り詰めたということは、当時は相当な衝撃でした。なにしろそこには同世代同カルチャーのバンドは皆無、オルタナの中では売れたレッド・ホット・チリ・ペッパーズの『Blood Sugar Sex Magik』ですらせいぜい30位どまり(のちに3位まで上昇しましたが)という時代だったのですから。
とにかく『Nevermind』は現在でも広く愛聴されている名作で、多くの後進のアーティスト達にも影響を与えており、ロックの歴史における最重要アルバムの一つとして語られるアルバムです。
僕とニルヴァーナの出会いもこのアルバムでしたね。新宿にあったヴァージン・メガストアをうろうろしていた時、このジャケットに心惹かれて衝動買いしたんでしたっけ。



バンドの情報とかまったく持ってなくて、半分ネタみたいな気持ちで買ったんですが、聴いてみたら比類なきポップセンスが破壊的にラウドなギターで表現されていて、「うわ、これはすごい」と衝撃を受けたのを覚えています。
贅肉を削ぎ落として見事にシェイプした楽曲群、エモーショナルなコバーンのヴォーカル、退廃的な歌詞、攻撃的なサウンド、どれを取っても強烈でしたね。


Nirvana - Smells Like Teen Spirit


Nevermind』からのシングル。ビルボード6位、全英7位。
問答無用にカッコいいイントロのリフと、シンプルでダークだけどわかり易いメロディー、へヴィとポップの狭間にある演奏、「気分は最低だろ?」と若者の閉塞感を歌った歌詞と、どこをとっても文句のつけようのない名曲です。
しかしコバーンはこの曲によって巨大な成功がもたらされたことに、愛憎半ばするような複雑な感情を持っていたようで、ライブでこの曲をプレイする前に「契約の関係で仕方ないからこの歌を歌う。だけどこの曲は俺たちの人生を、そしてシアトルを台無しにした。そして多分、お前らも」と言うなど、しばしば否定的な発言をしています。
結果としてこの曲は、ニルヴァーナの最も有名な楽曲であるにもかかわらず、コバーン本人が最も演奏したがらない楽曲となってしまいました。


Nirvana - Come As You Are


Nevermind』からの2ndシングル。ビルボード32位、全英9位。
全体を覆うドローンとした気だるそうな雰囲気、どこか翳りのある美しいメロディー、クールなギターソロ、ケヴィン・カースレイクが監督した印象主義的なPVと、これもまた素晴らしいところだらけの名曲です。
なお前にも書きましたが、この曲のギターリフがキリング・ジョークの『Eighties』に酷似しています。
コバーンはこれを気にしていて、この曲をシングルカットすることを渋っていたのですが、当時ニルヴァーナのマネージメントをしていたダニー・ゴールドバーグが、よりコマーシャルな曲をシングルにすることを望んだため、ついに発売されることになったという逸話があります。
コバーンの懸念は的中し、実際キリング・ジョーク側はこれを訴えようとしましたけど、結局実現はしませんでした。その理由には諸説あり、財政的な理由とも裁判所が受理しなかったともコバーンの死で訴訟を断念したとも言われていますが、はっきりしたことは分かりません。
その後グロールがキリング・ジョークのアルバムにゲスト参加していますし、少なくとも感情的には手打ちになったと考えていいのではないかと思うのですが。


Nirvana - Lithium


これも『Nevermind』からのシングル。ビルボード64位、全英11位。
妙にテンションの高い歌詞と、不器用な哀愁味を持ったメロディーが特徴で、絶望的に孤独な気分のときでも、聴くと結構明るくなれる曲です。
「俺はすごく醜いんだろうけど別に構わない。気付いてないだけで本当はあんただってそうだからねえ」なんて歌詞を聴くと、絶望や諦念といったものを突き抜けた境地に達したような気分になりますし。
リチウムは躁鬱病の治療に使われる薬だそうですが、曲にも薬並みの効能を感じますね。


Nirvana - In Bloom


これも『Nevermind』からのシングル。全英28位、ビルボードのメインストリーム・ロックチャートで5位。
ヘヴィなギターサウンドと畳み掛けるようなドラムスの作り上げるダイナミズムが耳を襲いますが、メロディは存外ポップで一筋縄ではいかない曲です。
「ガキを売って食い物を確保する」から始まる歌詞も大胆かつ衝撃的ですし、昔のモンキーズあたりをパロディにしたようなPVも面白いです。


Nirvana - Breed


Nevermind』収録曲。
衝動のみで作られたような疾走感溢れる曲で、いらないものをすべて削ぎ落としたシンプルな演奏と、重いベースに乗せたスラッシュを越える歪んだギター音が気持ちいいです。


このアルバムの大成功で一躍若者たちのヒーローとなったニルヴァーナですが、コバーンはこの状況に対して大いなる葛藤を感じていました。
もともとアンダーグラウンド志向の強かった彼は、自分たちがメジャーを意識したポップな作品を作ったことによって成功したことを、自らの信念を曲げる行為だったのではないかと悩むようになります。あまりにも純粋過ぎる気もしますが、彼は才能あるミュージシャンにありがちな、極度に繊細な人柄だったのでしょう。
コバーンは『Nevermind』に対しても、たびたびその価値を否定するような発言を繰り返すようになりました。実際にはアルバムの完成当初、コバーンはサウンドプロダクションも含め非常に内容を気に入っていたと、プロデューサーのブッチ・ウィグが語っていましたから、彼の成功によるストレスから、そのような発言が発せられたと推測されます。
そして何より彼を苦しめたのが、メディアが伝える自分の姿と本来の姿が、あまりにもかけ離れていたことです。自らの実像とメディアが伝える伝説的なカリスマ「カート・コバーン」との乖離、そしてその虚像を崇拝する世界中のファンからの重圧によって、コバーンはどんどん追いつめられていきました。
結局コバーンはヘロインに耽溺するようになり、ニルヴァーナの活動は一時期麻痺します。


そんな中92年にコバーンは、ホールのヴォーカリストでもあるコートニー・ラヴと結婚し、この年一人娘であるフランシス・ビーンも生まれます。ただ妊娠中にコートニーがドラッグを使用したと一部で報道されたために、ワシントン州が2人の養育権を疑い裁判になったりもしたのですが。
相変わらずの周囲の喧騒の中、バンドは93年に3rdアルバム『In Utero』をリリースします。
このアルバムの制作に際し、プロデューサーにビッグ・ブラックやレイプマンで有名なスティーブ・アルビニを迎えたと聞いて、これはアンダーグラウンドに回帰するんだろうなと予想したんですが、見事に大当たりしましたね。
もともとアルビニという人が、繊細さは欠片もないがひたすら暴力的で生々しいサウンドプロダクションに定評がある人でしたし、実際提示されたサウンドも、ダークな世界観とヘヴィで低音を重視したプロダクションに彩られていましたし。
これはロックスターとしての商業的な成功がもたらすプレッシャーから逃れるための、バンドの毒抜き作業に当たるものだったのかもしれません。
そのためこのアルバムは前作ほどは売れませんでしたが、ビルボードと全英のアルバムチャートでは1位を獲得しています。


Nirvana - Heart-Shaped Box


『In Utero』からのシングル。全英5位、ビルボードのモダン・ロック・トラックスチャートで1位。
ピクシーズ直系の"溜めて爆発"するパターンを、よりルーズに演奏したような激情ナンバー。ちょっと嫌な感じのアルペジオが印象的です。
カートの不満や鬱屈が詰まりに詰まった曲なんじゃないかという気もします。


Nirvana - All Apologies


『In Utero』からのシングル。全英32位、ビルボードのモダン・ロック・トラックスチャートで1位。
ビートルズ風と言えなくもない親しみやすいバラードですが、歌詞は「俺が悪いんだ、全部俺のせいにしてくれ」っていう内容で、聴いていると精神的に厳しくなってくる曲です。
今思うと、カートの遺言にメロディーをつけたようなものなのかもしれません。


Nirvana - Rape Me


All Apologies』と両A面扱いでシングルカットされた曲。
絶望感や悲壮感が漂う痛々しいチューンで、特にラストの絶叫は鬼気迫るものがあります。
とにかくタイトルがあまりに過激(実際ウォルマートKマートでは、タイトルを『Waif Me』と変えたバージョンが売られた)なので、フェミニスト団体から不謹慎であると訴えられたりもしたのですが、歌詞は恐らく自分たちを食い物にしている連中に向けて書いたものなんじゃないかと思います。
MTVのビデオ・ミュージック・アワードで、『Lithium』を演るといいつつこの曲を演奏し、会場をパニックに陥れたのも懐かしいですね(実際はすぐに『Lithium』に演奏を切り替えたが、MTVは焦ってコマーシャルを流した)。


しかしコバーンの精神は癒されることなく、自身の本来の姿とロック・スター的イメージとのギャップに葛藤し、また思い通りに曲が作れなくなったことへの苛立ちも募らせていきます。
結局コバーンは薬物中毒を悪化させたうえ、鬱病双極性障害にも悩まされるようになり、自殺未遂や奇行を繰り返してメディアを騒がせた挙句、94年4月5日にシアトルの自宅で、ショットガンで頭を撃ち抜き自殺してしまいました。享年27。
遺書には強烈な筆圧で、親交のあったニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞の一部「It's better to burn out than to fade away(錆びつくより今燃え尽きる方がいい)」が引用されており、また部屋にはR.E.M.の『Automatic For The People』が流れていたそうです。
中心人物の突然の死によってバンドは解散し、グランジ・ブームは急速に終焉を迎えました。


コバーンの死後すぐに、ライブアルバム『MTV Unplugged in New York』がリリースされています。
これは前年の10月18日に、ニューヨークのソニースタジオで録音されたアコースティックライブが収録されたもので、ニルヴァーナのメンバー3人に、サポートギタリストのパット・スメア、女性チェリストのロリ・ゴールドストンを加えた5人で演奏されています。
リリース時期がコバーンの死後間もないということもあって、このアルバムは大きな反響を呼び、全米や全英のアルバムチャートで1位を獲得する他、オリコンでも20位に入っています。


Nirvana - The Man Who Sold The World


MTV Unplugged in New York』からのシングル。ビルボードのモダン・ロック・トラックスチャートで6位。
デヴィッド・ボウイの『世界を売った男』のカバーです。原曲に勝るとも劣らない、さりげなく香る刹那さが光る仕上がりになっています。
しかし印象に残るのが、疲労感のべったりと染み付いたようなコバーンの歌声ですね。鬱の時に聴くと死にたくなりそう。


Nirvana - You Know You're Right


02年のベストアルバム『Nirvana』からのシングル。ビルボード45位。
この曲は未発表曲扱いですが、ライブではたびたび演奏されており、ファンなら知っている曲でした。
何故発表がここまで遅れたのかというと、この曲の発表形態を巡ってバンドのメンバーとコートニー、そしてゲフィン・レコード側が対立し、泥沼の法廷闘争が展開されていたためです。
静かさと激しさのバランスが絶妙ですが、「pain」を絶叫するさまは自暴自棄の末にやけくそに肯定している感があって強烈です。


今もコバーンの死んだ当時のことはありありと思い出せるわけですが。
ロック・ミュージシャンというのは本当によく死ぬものなんですけど、コバーンのようにその一歩ずつ追い詰められて崩壊していく様子が、克明に伝えられていった例はあまりないかもしれません。
そしてメディアを通じて彼の崩壊を見つめていた人々、その中に他ならぬ自分自身も間違いなくいた、ということに、忸怩たる思いを感じずにはいられません。
彼の死は自分が「実は他人の人生を消費する側に立っている」ということを自覚させたという点で、ある意味非常に大きな事件でした。未だにこの件に関しては、得体の知れない割り切れない思いを抱いています。
メディアとロックの関係、メインストリームとアンダーグラウンド、スターの虚像と実像など、今でもニルヴァーナを聴き返すたびに、考えてしまうことが多いですね。


蛇足ですが、その後のメンバーや関係者のことも書いておきましょう。
ドラムスのグロールはニルヴァーナ解散後フー・ファイターズを結成し、そこでヴォーカルとギターを担当しフロントマンとなりました。
フー・ファイターズは大成功を収め、グラミー賞を11回も獲得しています。ニルヴァーナはコバーンのワンマンバンドだと思っていたので、グロールの意外な才能には驚いた記憶がありますね。
またグロールはプロボットというヘヴィメタルのプロジェクトを始動させ、モーターヘッドレミー・キルミスター、ソウルフライのマックス・カヴァレラ、キング・ダイアモンドらを迎えてアルバムを発表したり、クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジジョシュ・オム、元レッド・ツェッペリンジョン・ポール・ジョーンズとゼム・クルックド・ヴァルチャーズというバンドを結成したり、ポール・マッカートニーと共演したり、ドキュメント映画を監督したりと、多彩な活動をしています。
ベースのノヴォセリックはスウィート75なるバンドを結成、それが解散した後は元ミート・パペッツのカート・カークウッドと元サブライムのバド・ゴウと共にアイズ・アドリフトを結成しますが、いずれも上手くいかずに音楽業界から半引退状態となり、政治活動や本の執筆に活動のメインを移しています。また最近はフー・ファイターズのライブやレコーディングにゲスト参加し、グロールと旧交を温めているようですね。
初期のドラマーであるチャニングは、現在ビフォア・カーズなるバンドでヴォーカリストとして活動しています。今年ニルヴァーナがロックの殿堂入りすることを決めた際、彼も殿堂入りを許可されたと伝えられ久しぶりに話題になりました。残念ながらその話は間違った情報だったようで、チャニングは糠喜びすることになってしまったのですが。
また初期のヘルプドラマーだったクローヴァーとピータースは、それぞれ現在もメルヴィンズとマッドハニーで活動を続けています。
Bleach』で名前だけクレジットされたギターのエヴァーマンは、一時サウンドガーデンでプレイしていましたが、その後音楽業界を引退して米陸軍に入隊し、第2レンジャー大隊やグリーンベレーの一員として、イラクアフガニスタンで戦いました。退役後はコロンビア大学に入学し、哲学を修めて卒業しています。
後期にサポート・ギタリストとして参加したスメアは、グロールとともにフー・ファイターズで活動しています。一時期は飛行機が嫌いという理由で脱退していましたが、現在はまた出戻っています。
コバーンの未亡人コートニー・ラヴは、彼の死後本格的に女優に転進し、『The People vs. Larry Flynt』(邦題は『ラリー・フリント』)では、ニューヨーク映画批評家協会賞とボストン映画批評家協会賞の助演女優賞、シカゴ映画批評家協会賞の有望女優賞を受賞するなど、なかなかの成功を収めています。一方ミュージシャンとしての活動も続け、04年にはソロでフジロックのため来日しています。
しかし奔放な生活は相変わらずのようで、09年にはコバーンとの間に生まれた娘フランシスの親権を剥奪され、娘やその保護者との連絡も禁じられているそうです。またグロールとは犬猿の中で、時々お互いの誹謗中傷をマスコミを介して行っていますね(と思ったら、ロックの殿堂の授賞式でグロールとコートニーが和解の抱擁をして、こっちを笑わせてくれました。コートニーはツイッターでも殊勝なことを書いていますが、彼女のことだから1月もすればまた周囲に噛みつき出すような気も)。
また娘のフランシス・ビーンは、現在モデルとして活動しているそうです。コバーンの莫大な財産を相続し、将来には不安はないようで何よりです。