テンポール・チューダー

少し暑さは和らいできましたけど、まだまだ昼間は暑くて嫌になってしまいます。
あと関東ではほとんど雨が降らないんですよね。たまにお湿り程度の降雨があるくらいで、一日中雨という日は全然ありません。
今週からは利根川取水制限も始まりましたし、これが続けばいずれは断水とかもあるやもしれませんね。
などと音楽ブログで何故時候の話をしているのか意味不明ですが、とりあえず今回もスタートです。


セックス・ピストルズをある程度知っている方なら、『The Great Rock 'n' Roll Swindle』という映画とサントラ・アルバムをご存知かと思います。
ジョニー・ロットンジョン・ライドン)脱退後、悪名高いマネージャーのマルコム・マクラーレンが、残ったメンバーを言葉巧みに丸め込み、でっち上げた怪作ですね。
特にサントラのほうは、シド・ヴィシャス、スティーブ・ジョーンズ、ポール・クックを初めとして、有名な列車強盗のロナルド・ビッグス*1、フランスのよくわからないストリート・ミュージシャン、適当にオーディションで選んだそのへんのガキなど、いろいろな人にヴォーカルを取らせたり、オールディーズのカバーをしたり、ピストルズのディスコメドレーがあったりとメチャクチャな内容なんですが、その中で2曲を演奏していたバンドがありました。
それが今回取り上げるテンポール・チューダーです。このアルバムに参加したせいで、悪いイメージで記憶している人もいるかもしれません。


テンポール・チューダーは74年、ヴォーカルのエドワード・チューダーポールを中心に結成されました。
詳しい履歴は自分もよく知らないんですが、本来はフォークを意識したパブ・ロック系の音だったらしいです。
とりあえず彼らが世に出たのは、『The Great Rock 'n' Roll Swindle』の中で『Who Killed Bambi』『Rock Around the Clock』を演奏してからでした。おかげで奇妙でバカバカしいパンク・バンドとして認識されるようになってしまいましたが。
なおチューダーポールは、映画にも映画館の販売員役として登場しています。


Tenpole Tudor - Who Killed Bambi


これがその問題の曲。79年にシングルカットされ、全英6位のヒットを記録しています。
どう聴いてもふざけているとしか思えない、全然笑えないギャグソングなんですが、これがヒットしたというのはセックス・ピストルズの看板はそれだけ大きかった、ということなんでしょうか。
ちなみに作詞作曲はテンポール・チューダーと、当時マルコム・マクラーレンの恋人だったあのヴィヴィアン・ウエストウッドです。


これだけだったら単なるマクラーレンの詐欺の片棒を担いだバンド、として忘れられるだけだったんですが、彼らはそこでは終わりませんでした。
なんとエルヴィス・コステロらを輩出したことで有名なあのスティッフ・レーベルと契約し、中世の甲冑をトレードマークとするという、まったくもって意味不明なギミックでシーンに再浮上してくるのです。


Tenpole Tudor - Swords Of A Thousand Men


81年にリリースされたシングル。全英6位のヒットとなりました。
すさまじくバカバカしい曲ではあるんですが、ノリと男気だけはメチャメチャあって、個人的には好きな曲ですね。
ちょっとアダム&ジ・アンツに似てるところもあったりしますが、そう言えばあれもマクラーレンのプロデュースでしたっけ。


Tenpole Tudor - Wunderbar


これも81年のシングル。全英16位を記録しています。
『Swords Of A Thousand Men』ほどのインパクトはありませんが、いかにもアルコール度数が高そうな曲で、これも悪くないなと個人的には思っています。


しかし彼らの活躍もここまでで、81年にもう1枚シングルがチャートインしただけで、あっという間に姿を消してしまいました。
まあどこからどう見てもイロモノ以外の何者でもありえないわけで、飽きられたらそこで試合終了なんですが、それにしてもあっけなかったですね。
現在チューダーポールは俳優としていて活動しており、アレックス・コックス監督の『シド・アンド・ナンシー』などに出演するほか、あの『ハリー・ポッターと秘密の部屋』にもボージン役で登場するなど、地味に活動しているようです。
また他のメンバーはザ・チューダーという名前のバンドで活動しており、たまにチューダーポールも加わってライブもしていると聞いています。

*1:イギリスの列車強盗犯。1963年に現金輸送列車を襲い、260万ポンドを強奪、一度逮捕されるが脱獄してブラジルへ高飛びする。現地で子供をもうけたため、ブラジルに居たイギリスの警察に身柄を拘束された時も、当時のブラジルの「ブラジルで生まれた子供の父親が外国人である場合、その父親は身柄を拘束されない」という法律に引っかかり逮捕されることはなかった。子供が成人した2001年5月、罪を償うためイギリスへ戻り、獄中生活を送るも、現在は病気のため釈放されている。