イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズ

そろそろエレポップばかりだと飽きられるかな、と思って、今回はパブ・ロックにします。
なぜここでパブ・ロックになるのかちょっと意味不明ですが、とりあえず気が向いたんで懐かしいイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズについて書いてみましょう。
彼らも日本では地味だったんで、知っている人は少ないかもしれませんが、そこはまあいつものことなので気にしないで行くことにします。


普通パブ・ロックというのは地道な人気はあっても、派手な成功とは無縁であります。
まあパブ・ロックの成り立ち自体が商業音楽へのアンチテーゼという側面を持っていたんで、それも仕方のないところなんですが、中には例外もあります。その一つが今回書くイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズです。
日本でも故・忌野清志郎が86年発売の『レザー・シャープ』でバック演奏をザ・ブロックヘッズに要請し、その後わざわざ日本に招いてライブも行っている(確かライブアルバムにもなっているはず)ので、覚えている人もいるかもしれません。


イアン・デューリーは幼い頃にかかった小児麻痺により、左半身が不自由な障害者となりましたが、絵画を熱心に学んで美術学校の教師の職に就きます。そしてそこで仲間や学校の生徒たちと、キルバーン&ザ・ハイロウズというバンドを組み、パブでライブ活動を続け、やがてデビューも果たします。
このバンドはレーベルの倒産などもあって、残念ながら長続きしなかったんですけど、一人になったデューリーはバックバンドのザ・ブロックヘッズを率いて、ソロとして活動することになりました。
当時35歳という彼の年齢が問題になって、なかなかレコード会社が決まらなかったという苦闘の時期もあったのですが、エルヴィス・コステロニック・ロウらを擁するスティッフ・レーベルに見出されて再デビューを果たすと、おりしもパンク時代の到来ということもあって、俄然注目を集めるようになっていきます。
そして78年発売のシングル『Hit Me With Your Rhythm Stick』が全英1位を獲得するなど、多くのヒットを飛ばすことになりました。


彼らの特徴はシンプルなロックンロールを基本としながらも、ファンクやR&B、レゲエ、カリプソなど雑多な要素が混じり合ったファンキーで肉感的なサウンドや、労働者階級の鬱屈した気持ちを代弁し体制への痛烈な風刺を含んだ歌詞もあるんですが、それよりも何よりも、身体のハンディキャップをまったく感じさせない、デューリーのエネルギッシュなヴォーカルとパフォーマンスがとにかく印象的です。
当時僕は中学生でしたが、左半身が不自由でもこんなことができるんだ、と感銘を受けたのを覚えています。これこそが真に「カッコいい」というものなんだろうな、とか思いましたっけ。


Ian Dury & the Blockheads - Sweet Gene Vincent


77年のデビューアルバム『New Boots And Panties!!』に収録された曲。
もともとはバラードなんですが、ここではストレートなロックンロールとして演奏されています。
なおギターを弾いているのは、当時ザ・クラッシュのミック・ジョーンズです。


Ian Dury & The Blockheads - What A Waste


彼らの人気に火がついた78年リリースのシングル。全英9位のヒットとなりました。
レゲエやカリプソからの影響が顕著な、しなやかなリズムを持つ曲ですね。
その後パンクやニューウェーブにはブラック・ミュージックを取り入れるミュージシャンが多かったですが、彼らはそのはしりだったと言えるかもしれません。
そのあらゆる音楽を飲み込んでいくかのような雑食性が好きでした。


Ian Dury & The Blockheads - Hit Me With Your Rhythm Stick


これも78年にリリースされたシングル。この曲は全英1位となり、彼最大のヒットとなっています。
ナイジェリアの反体制ミュージシャン、フェラ・クティの影響を色濃くリズムに残しつつ、キャッチーかつコンパクトな構成にまとめ上げた名曲です。
ベースのノーマン・ワット・ロイのファンキーなベースラインもよいですし、デイヴィ・ペインのサックス二刀流ソロも見所です。やっぱりパブ・ロック勢は下積みが長いんで、演奏の上手い人が多いですわ。
また初期プリンスみたいなチョーキングを聴かせるギターのチャス・ジャンケルは、後にブラック・ミュージックの御大クインシー・ジョーンズと組んで、日本でもヒットした『愛のコリーダ』を作曲しています。


Ian Dury & The Blockheads - Reasons To Be Cheerful Part.3


79年にリリースされたシングル。全英3位のヒットを記録しています。
さらに大胆にレゲエやカリプソの要素を取り入れた洗練されたトラックに載せて、デューリーのトーキングスタイルのヴォーカルが炸裂するという、当時としてはちょっと先進的な内容ですね。
しかしこのノリのよさと自然さはさすがデューリーといったところでしょうか。


79年の3rdアルバム『Do It Yourself』を最後に、ザ・ブロックヘッズの中心メンバーであり、重要なソングライターでもあったチャス・ジャンケルが抜けると、デューリーの音楽はだんだんと精彩を欠くようになっていきます。
しかし81年に舞台『ハムレット』に出演し、英国を代表する舞台女優ヴァネッサ・レッドグレープと共演して高い評価を得ると、今度は舞台、映画、テレビなどの仕事が次々と回ってくるようになりました。
結局彼はその後俳優に活動の軸足を移し、独特の存在感とキャラクターでポジションを確立します。フェリーニポランスキーからもお呼びがかかって、その作品に出演したのですから相当なものでしょう。
それでも時々ステージに立ってミュージシャンとしても活動していましたが、00年に大腸癌のため、58歳で永眠しました。
僕は今病身なんですが、そうなってから見ると彼のカッコよさがますますよく分かりますね。素晴らしいミュージシャンでした。