デュラン・デュラン

どうもです。寒くて体調を崩しがちなので、前回の続きをささっとやってしまいましょう。
というわけでデュラン・デュランです。と言っても個人的に思い入れがあった時期は前回でほぼ紹介してしまったので、割とあっさり目の内容になると思いますけど。


83年に入ってアメリカでもブレイクした彼らは、アイドルバンドからの脱却に成功して活躍することになります。
この年7月にはイギリス王室主催のチャリティ・コンサートに出演しているくらいですから、老若男女に支持されていたのは疑いのないところでしょう。
彼らは更なる商業的成功を求めて、よりアメリカでウケそうなダンス・ミュージックに接近した路線を進んでいくことになります。
そして10月にリリースしたシングル『Union of the Snake』は英米で大ヒットを記録し、完全に世界的なスターの座に上り詰めるのです。


Duran Duran - Union of the Snake


83年10月リリースのシングル。全英3位、ビルボード3位。
リズム・アレンジがデヴィッド・ボウイの『Let's Dance』に似ていますが、自分たちなりに消化はしており、これはこれでなかなか緊張感のある仕上がりになっているのではないでしょうか。


翌11月には3rdアルバム『Seven and the Ragged Tiger』もリリースされています。
このアルバムはプロデューサーにトーキング・ヘッズ、トンプソン・ツインズ、フォリナーなどを手がけたアレックス・サドキンを迎え、完全にリズム重視のダンス路線にシフトしています。
その路線変更は大当たりし、全英1位、ビルボード8位と大ヒット、彼らは着実にスタジアム級のビッグ・バンドになっていったのです。


Duran Duran - The Reflex


『Seven and the Ragged Tiger』からのシングル。全英1位、ビルボード1位と大ヒットした彼らの代表曲。
カッコいいダンス・ナンバーですが、メロディーもよく練られていてなかなか味わいがあるのではないでしょうか。またジョン・テイラーのベースとアンディ・テイラーのギターも地味に魅力的です。


Duran Duran - The Wild Boys


84年リリースのシングル。全英2位、ビルボード2位。
K-1総合格闘技で活躍したミルコ・クロコップの入場テーマとして、あまりにも有名な曲ですが、ミドルテンポの力強い曲で、シンプルなアレンジも効いています。


この年彼らはライブアルバム『Arena』もリリースし、全英6位、ビルボード4位とヒットさせています。
またあのバンドエイドに参加したり、ニック・ローズカジャグーグーのプロデュースをして成功させたりと、多方面での活躍も開始しています。カジャグーグーの場合はサイモン・ル・ボンの当時のガールフレンドが、カジャグーグーのヴォーカリストだったリマールと知り合いで、その関係で新しいバンドをプロデュースしたがっていたローズを紹介されて彼がEMIに売り込んだらしいのですが。
そして彼らはこの年に2回目の来日も果たし、東京、大阪、名古屋、福岡、仙台で全7公演を行っています。


しかしデュラン・デュランの中でもロック側であるジョンとアンディは、バンドのダンス路線に内心反発と不満があったようで、翌85年にはソロシンガーのロバート・パーマー、元シックのトニー・トンプソン(ドラムス)を誘ってパワー・ステーションというプロジェクトを結成し、独自の活動を開始します。
このプロジェクトの活動については前に書きましたので、こちらを参照して頂ければと思うのですが、これまでの鬱憤を晴らすかのようにゴリゴリのロック色を出しつつちゃんとダンス・ミュージックの要素も融合させていて、当時非常に気に入っていましたね。このプロジェクトはアメリカで大成功を収め、ジョンとアンディの存在感を再確認させることとなりました。
ジョンとアンディは当時デュラン・デュランよりこのプロジェクトのほうに愛着を感じていたらしく、同年のライブ・エイドではデュラン・デュランパワー・ステーションの両方で出演するという異常事態も引き起こしています。
一方これに刺激されたのか、バンドのダンス路線のイニシアチブを持っていたでル・ボンとローズは、どっちの立場かよく分からないドラムスのロジャー・テイラーとともにアーケイディアというユニットを結成し、シングル『Election Day』とアルバム『So Red The Rose』(邦題は『情熱の赤い薔薇』)をリリースしヒットさせます。
このユニットはパワー・ステーションとは真逆のシンセを多用した耽美路線で、聴き比べてみると両者の趣味の違いがよく分かります。アーケイディアについてはまた後日紹介しましょう。
こんな感じでバンドの分裂劇はさらに深刻化し、翌86年にはジョンが映画『ナインハーフ』のテーマ曲である『I Do What I Do』をヒットさせ、アンディも元セックス・ピストルズのスティーブ・ジョーンズと組んでTV映画『マイアミ・バイス』の音楽を手がけるなど、メンバーは収拾のつかないほどバラバラな状態になっていきました。
そしてこの年にはロジャーが実家の農家を継ぐためというすごい理由で脱退、その後すぐにアンディも方向性の違いを理由に脱退し、デュラン・デュランは3人になってしまうのです。
ロジャーは脱退後本当に引退していて、一度デュラン・デュランの9thアルバム『Thank You』の中の『Perfect Day』(ルー・リードのカバー)、『Watching the Detectives』(エルヴィス・コステロのカバー)で叩いた以外は、音楽活動をしていませんでした。
アンディはロバート・パーマーやマイケル・デ・バレス、ベリンダ・カーライルのアルバムへ参加したほか、アイアン・メイデンロッド・スチュワート、サンダーのアルバムをプロデュースしたり、ソロアルバムをリリースしたりと、主にブリティッシュ・ハードロック系に近い活動をすることとなります。


Duran Duran - A View To A Kill


85年のシングル。全英2位、ビルボード1位。邦題は『007 美しき獲物たち』。
バンドが分裂状態だった時期にリリースされた唯一の音源で、映画『007 美しき獲物たち』のテーマソングです。
美しいメロディーを持ったミドルテンポの曲で、007のテーマソングの中ではポール・マッカートニー&ウイングスの『Live And Let Die』(邦題は『007 死ぬのは奴らだ』)に次ぐ出来なんじゃないでしょうか。
それまでの007のテーマ曲イメージをまったく変えてしまうようなアレンジを施しつつ、ストリングスなどを使って007らしさは残しているあたり、なかなか心憎い作りになっています。


さて2人が抜けてしまったデュラン・デュランですが、サポート・メンバーとしてフランク・ザッパ・バンドやミッシング・パーソンズで活躍していたウォーレン・ククルロ(ギター)と、元アヴェレージ・ホワイト・バンドのスティーブ・フェローン(ドラムス)を迎え、活動は続行されることとなりました。
そして86年にはシングル『Notorious』を大ヒットさせ、健在ぶりを示すこととなるのです。


Duran Duran - Notorious


全英7位、ビルボード2位。
この曲はパワー・ステーションとアーケイディアの音楽的要素を合成させたような、シンセを使ったホワイト・ファンクといった趣になっています。


この年にはアルバム『Notorious』をリリースしますが、全英16位、ビルボード12位とセールスにはやや翳りが見えるようになります。
しかし日本での人気はまだまだ高く、87年には3度目の来日を果たし、後楽園球場などの大きな箱を多くのファンで埋めています。


Duran Duran - I Don't Want Your Love


88年のシングル。全英14位、ビルボードで4位。
なんかアレンジがハウスっぽいですね。それでもしっかりデュラン・デュラン節になってるのはさすがですが。


この年にはアルバム『Big Thing』もリリースされますが、全英15位、ビルボードで24位とセールスはいまいちで、下り坂になっているのは傍目から見ても明らかでした。
そんな中89年にはサポート・メンバーだったククルロと、シンディ・ローパーや日野皓正などのバックで叩いていたスターリング・キャンベル(ドラムス)を正式メンバーとして迎え、このラインアップで4度目の来日も果たし、東京ドームなどでライブをしています。
しかし欧米での退潮は覆うべくもなく、翌90年にリリースしたアルバム『Liberty』は、全英でこそ8位となりましたがアメリカでは46位と不振で、落ち目を印象付けることとなりました。
同年にはキャンベルがニューヨークに帰り、そのまま脱退してしまいます。以降デュラン・デュランのドラムは、かつてサポートを務めたスティーブ・フェローンやフランク・ザッパやスティングの元で叩いていたヴィニー・カリウタ、やはりフランク・ザッパ・バンドの出身でククルロとはミッシンク・パーソンズで同僚だったテリー・ボジオパワー・ステーションでジョンと組んでいたトニー・トンプソン、スティーブ・ヴァイなどのバックで活躍したエイブラハム・ラボリエルJr.(ロンドン五輪の開会式で、ポール・マッカートニーのバックで叩いていた)、エルトン・ジョンらと活動経験のあるアンソニー・J.・レスタらがゲストとして参加しています。


そんなこんなでいよいよフェードアウトかと思われたデュラン・デュランですが、さすがにベテランらしくここで粘り腰を発揮します。
『Liberty』の売り上げ不振に思うところがあったのか、彼らは恒例のツアーを行わずにすぐにレコーディングを開始し、じっくり練り込んだアルバム『Duran Duran』(通称『ウェディング・アルバム』)を93年にリリースするのです。
このアルバムは実は92年にレコーディングは完了していたのにも関わらず、マネージメントの関係でリリースが伸びたという曰くつきのものでしたが、心機一転なのかデビューアルバムと同じタイトルを冠するなど気合が入った作品となっており、全英4位、ビルボードで7位とヒットし復活を果たすのです。


Duran Duran - Ordinary World


アルバムからの先行シングル。全英6位、ビルボード3位のヒットとなりました。
イントロから引き込まれるような幻想的で壮大なバラード。90年代の彼らの代表作と言ってもいいのではないでしょうか。
バラードですが泣きの要素は少なく、温かい気持ちになっていく希望に満ちた曲です。
日本でもソニーのMDウォークマントヨタのCMに使われていました。


Duran Duran - Come Undone


Duran Duran』からのシングル。全英13位、ビルボード7位。
切ないメロディーが印象に残るバラードです。個人的にはバラード連発はどうなのって感じもしなくはないのですが、メロディの美しさはさすがです。


これで復活した彼らは、95年には自分たちのルーツやフェイバリット曲をカバーしたアルバム『Thank You』もリリースしています(全英12位、ビルボード19位)。
このアルバムはボブ・ディランの『Lay Lady Lay』、ルー・リードの『Perfect Day』、エルヴィス・コステロの『Watching the Detectives』、イギー・ポップの『Success』、レッド・ツェッペリンの『Thank You』、パブリック・エナミーの『911 Is a Joke』、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの『I Wanna Take You Higher』などがカバーされており、そのミーハーぶりは微笑ましく思えるくらいだったのですが、英国のQ誌では「歴史上最悪のアルバム」に認定されてしまいました。


Duran Duran - White Lines


『Thank You』からのシングル。全英17位、ビルボードのダンスチャートで5位。
これはグランド・マスター・フラッシュという、元祖ヒップホップグループのカバーですね。
ククルロのギターがとにかくカッコいいですね。あとバンドの方向性と全然違うジャンルにも取り組む、そのチャレンジ精神もすごいと思います。


しかしバンドをまたまた激震が襲うことになります。それはジョンの去就でした。
96年に入るとジョンは再結成パワー・ステーションの活動に入り、同時に元セックス・ピストルズのスティーブ・ジョーンズ(ギター、ヴォーカル)、元ガンズ・アンド・ローゼズダフ・マッケイガン(ギター)とマット・ソーラム(ドラムス)と、ニューロティック・アウトサイダーズも結成します。これについてもこちらで書いてますので、興味がありましたらどうぞ。
特にニューロティック・アウトサイダーズへの思い入れは相当だったようで、ジョンはパワー・ステーションの活動を途中降板し、そちらに専念することとなります。そのためパワー・ステーションの日本公演では、プロデューサーのバーナード・エドワーズがベースを弾いていましたっけ。
結局ジョンはこの年、ニューロティック・アウトサイダーズとしてアルバム『Neurotic Outsiders』をリリースした他、ソロアルバム『Feelings Are Good And Other Lies』もリリースするなど、完全にデュラン・デュランのことを忘れたようにソロ活動に没頭していきます。
そして翌97年、ついにジョンはデュラン・デュランのことを「別れたいのに離婚してくれない太った古女房」と言って脱退してしまうのです。


デュラン・デュランは残った3人で活動を続行しますが、さすがにジョンの脱退のダメージは大きく、活動は低迷していきます。
97年リリースのアルバム『Medazzaland』(ビルボード58位)は何故か欧州ではリリースされず、続く00年のアルバム『Pop Trash』(全英53位、ビルボード135位)はキャピトルEMIから契約を切られ、インディーズからのリリースを余儀なくされるくらいでしたから。
かつてないくらいの落ち目っぷりで、もう完全に彼らは過去の人になっていましたね。


Duran Duran - Electric Barbarella


『Medazzaland』からのシングル。全英23位。ビルボード52位。
思いっきりエレポップに回帰していて、個人的には好きなタイプの音ですが、かつての自分たちのセルフパロディを演じている感もあり、何とも言えない気分になりますね。
なおこの曲はインターネットによるダウンロード購入ができる、初の曲でもあります。


さてこのまま忘れられてしまうかに思われたデュラン・デュランですが、恐ろしいことにここでまたまた粘り腰を見せるのです。さすがベテランと言うか何と言うか、もうここまでくると化け物レベルですね。
発端は脱退したジョンでした。彼は脱退後ジョン・テイラー&テロリステンというバンドを結成し、アルバムをリリースするのですが思いっきりこけてしまい、デュラン・デュランと共倒れのような形になってしまいます。
そこでジョンはバンド側に連絡を取り、オリジナル・ラインアップによるデュラン・デュラン再編を打診し、ル・ボンとローズもそれを快諾、アンディとロジャーも引っ張り出してきて、ついに再びオリジナル・メンバーが勢揃いすることになるのです。
気の毒なのはククルロですが、彼は01年のツアー終了後に、ミッシング・パーソンズ再結成という名目で身を引くこととなりました。
03年にはローズと初代ヴォーカリストのスティーブン・ダフィのユニット、ザ・デビルズの活動を挟んで、ついにオリジナル・メンバーでのワールド・ツアーが実現します。スタートは日本の大阪城ホールでした。
そして翌04年には、元シックのナイル・ロジャースのプロデュースでアルバム『Astronaut』をリリースすると、これが全英3位、ビルボード17位のヒットとなり、彼らは再び復活することに成功するのです。


Duran Duran - (Reach Up For The) Sunrise


『Astronaut』からの先行シングル。全英5位、ビルボード89位。
懐かしさと新しさが同居した感じと、メロディーの良さが光る佳作ですね。アレンジが生音重視なのも良いです。


しかし06年には予想通りアンディが再度脱退します。彼はハードロックの人ですから、デュラン・デュランでの活動はフラストレーションが溜まる一方だったんじゃないでしょうか。
その後バンドは完全に打ち込み路線になり、07年のアルバム『Red Carpet Massacre』(邦題は『レッド・カーペット・マサカー〜美しき深紅〜』。全英44位、ビルボード36位)に伴うツアーでは、曲によってはシンセを並べて横一列になって演奏するという、まるでクラフトワークデペッシュ・モードのような状況になっていました。
たださすがにやり過ぎたと感じたのか、10年リリースのアルバム『All You Need Is Now』では、2ndアルバム『Rio』への回帰を目指した音になっているそうです。セールスも全英11位(iTunes1位)、ビルボード29位(iTunes2位)とまずまずで、ベテラン健在と言っていいんじゃないでしょうか。
ニュー・ロマンティックというキワモノムーブメントに乗って登場し、周囲からは単なるアイドルバンドだと思われていたのに、ここまでビッグになって今も続いているんですから立派なものです。それについては敬意を表したいですね。